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05.10
Sat

Science, Policy, and the Value-Free IdealScience, Policy, and the Value-Free Ideal
(2009/05/30)
Heather E. Douglas



STAP事件のせいで,科学や科学者の職業的規範について語られることが多くなった今日この頃.科学者サイドからは,「科学の世界では当たり前」とか「科学者として失格」とかいう言葉(あからさまにそういう表現は使っていなくても,少なくてもそういう空気感)が伝わってきます.そういう発言から,なんとなく科学者/非科学者を隔てている「科学者の共通ルール」のようなものがあるという印象ができているように思います.しかし,修士2年まで(曲がりなりにも)科学の現場にいた私の実感としては,「科学者の共通ルールなんてあるんだろうか」というのが率直な疑問です.少なくとも僕は教えてもらっていないなあと.(博士号をとらないと見えない世界もあるのかもしれませんが….)

STAP事件で問題になったのは,データの扱い方とか,科学論文の書き方などの手続き上のことがメインですが,もっと深い問題,「何のために研究をするか」とか「科学者はどういう存在であるべきか」の話しになると,皆がそれぞれに強い意見をもっている割に,一致した見解は実はほとんど無いように思えます.

科学はどういう手続きを踏んで進んでいく「べき」なのか.
科学者はどんな「規範」をもつ人々なのか.

もし,本当に科学者の側にスタンダードな答えがないのならば,私たち非科学者こそ,それを考え,よく理解していくべきなのかもしれません.科学を経済的に支援し,その成功と失敗の影響をこうむる身として…

とある方に,科学哲学には「科学と価値」論という分野があると聞きました.その方に教えていただいたのが,本書“Science, Policy and the Value-free Ideal”でした.科学は価値と切り離して考えるべきとする"value-free ideal"という「通説」に,異議を申し立てる内容です.

もう少し具体例が多く入っていたらより説得力があっただろうにとは思いましたが,本書に書かれていることの大筋は納得できるものでした.この本が,たとえば,STAP事件から派生した「国の研究機関のありかた」などを議論するのにそのまま役立ったりはしないかもしれませんが,科学と社会のつながり,あるいは科学者の「規範」について考える上での出発点になる本だと思いました.

エピローグが,本書のよい要約になっていたので,備忘のためここに載せます.

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以下,“Science, Policy and the Value-free Ideal”epilogue の私訳.


「価値中立の理想」は,無用な混乱をもたらしてきた.これまで科学者たちは,倫理的・社会的な価値を少しでも考慮することは―とくに科学的根拠を評価するときにそれらの価値の混入を認めることは―,科学の公正さ(integrity)や信頼性(authority)を損うと考えてきた.しかし実際には,科学が社会に大きな影響を与えるような場面ではとくにそうだが,根拠が十分であるかどうかを決めるのは倫理的・社会的な価値にほかならない.そして価値こそが科学者同士の意見が食い違う一番の原因なのに,検証・認知されないままにされてきた.そのせいで,意見が一致しない専門家同士がお互いを「疑似科学」呼ばわりしたりして,科学/疑似科学論争「健全な科学/くず科学論争」(sound science - junk science dispute)が勃発することにもなった.中傷のために「疑似科学」という言葉が使われるような状況では,科学の公正さや信頼性の出る幕もなく,科学に基づく政策決定も成り立たなくなってしまう.

そろそろ「価値中立の理想」を捨て,別のよりよい理想を描くべきではないだろうか.価値中立の理想が今の形で登場したのは1950年代だが,これは皮肉にも,科学哲学者たちによって打ち立てられた.科学者たちの社会的な役割が大きくなり始め,孤立主義的な科学者像―それは価値中立の理想が前提とする科学者像だ―にそぐわなくなってきていたさなかのことだった.しかし,この孤立主義の前提を捨てれば,価値中立を理想とする理由もなくなる.科学の社会的な役割を認めることにより,新たな理想が生まれる余地が生まれるし,また必要にもなるのだ.

新たな理想への第一歩は,科学者の道徳的な責任についてよく考えることだ.科学は社会的権威をもつため,科学的知見の表明には少なからず責任が伴い,その表明が強すぎ(あるいは弱すぎ)た場合の影響は軽視できない.科学者は,誰かの助けでこの負担を軽減することはできても,責任から完全に免れることはない.私たちはつねに,データを解釈し,不確実性を明確に示し,私たちの下す決定がどんな影響をあたえるかを教えてくれる存在を必要としている.このような役割を果たすためには科学者は判断を下さねばならず,それには責任が伴う.

価値は科学的判断に不可欠なものだが,その機能には一定の制約がなければならない.価値中立の理想を捨てるにしても,科学的プロセスにおける「証拠」と同じ役割を価値に認めるのはまずい.そのようなことをしたら,科学の価値そのものや,科学の公正さや正当性が損なわれてしまうだろう.そんな本末転倒に陥らないためには,科学の中で価値の果たすいくつかの役割を区別し,科学で重要な判断するの際(とくに,ある科学的な言明の根拠が十分かどうかを評価するとき)に価値が果たす役割を,「間接的」なものに限定する必要がある.

科学の公正さを保つためには,価値の混入を防ぐことではなく,価値が果たす役割を区別・限定することが大事である.この区別をしっかりすることは,科学に「客観性」を保証することにも関係する.科学的客観性の少なくとも一つの側面は「推論における価値の役割が明確に区別されているかどうか」にあるからだ.もっとも,客観性には他の側面もある.客観性のそれぞれの基準は主張の信頼性を高める能力をもつ反面,どの一つも完全ではないため,科学的主張は複数の客観性の基準に照らして判断される(客観性の概念が複雑であるのには,このような実用性もあるのだ).とはいえ,科学の公正さを保つためのに本質的に重要なのは,価値が「直接的な役割」を果たす場面を,適切な段階―たとえば研究対象を選ぶときなど,価値が正当な役割を果たせる段階―に限ることである.

これが,科学の公正さを守るための新たな鍵となる.政策決定のなかで科学がどのように使われるべきかの理解も変わっていくだろう.すなわち,科学的根拠を評価するとき,たとえ個々の状況に特殊なものであっても,社会的・倫理的価値は無視してはならず,それどころか本質的なものとして捉えられるようになる.ただし価値は,残された不確実性がどれほど重大かを判断する役割に限定して使用されることになる.また,民主主義においては,価値がどんな間接的役割を果たしたかを(政策文書や研究論文などで)明らかにすることが,同じくらい重要である.

価値の明示を求めることは,科学者や政策決定者にいくらかの負担を課すことになる.そのため,市民をこのプロセスに巻き込んで,必要な価値判断をする手助けをしてもらうもの有効かもしれない.そのような市民参画を可能にする社会的仕組みのための研究はすでに始まっているし,さらに精力的に研究が進むことが望まれる.このような市民参加の試みは,政策決定のプロセスを複雑にし,「先に事実があり,その後に価値判断をする」という単線的なモデルから遠ざけることにはなる.だが,これを避けないことが,科学的知識の性質を誠実に評価するということなのだ.科学は世界について知るためのもっとも頼りになる情報源だが,それは完全ではありえず,つねに新しい証拠によって覆されうるものでなければならない.私たちはいつでも世界に驚かされるべきで,驚きに対してオープンでなくなったとき,疑似科学「くず科学」へ足を踏み入れることになる.

私たちは,そうして変わりゆく科学にもとづいて,政治的決断を下さなければならない.しかし仮に,ある判断の妥当性がその後の証拠によって覆されたとしても,もし価値が果たした役割が正当で,かつ十分にオープンにされていたならば,それがベストな決断だったかどうか,当時手にしていた証拠と価値へのコミットメントへ遡って評価することができるだろう.それが,この不確かで複雑な世界で生きる私たちにとっての精一杯なのだ.

追記:"sound science/junk science"は語義通り「健全な科学/くず科学」と訳したほうがよいとのご指摘をいただきましたので,そのように訂正しました.


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