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08.04
Sun

<ひと>の現象学<ひと>の現象学
(2013/03/21)
鷲田 清一


きれいな装丁につられて購入した.
私にとっては鷲田清一氏といえば高校現代文(教科書に出てきたのは『身体,この不思議なもの』だったか?)でおなじみの哲学者だった.

「顔」「心」「家族」「愛」「自由」「死」などといったテーマごとに論じられている.いわく,「あるものを見たときにそれとは反対のものを透かしてみてしまうというわたしの思考の,いってみれば癖のようなもの」(p251)を突き詰めて,各テーマについて語る.「顔とはなにか?」というような,いかにも鷲田先生の哲学っぽい,身体を見つめなおすような話から,「現代日本で個人の在り方がどう変わってきたか」という社会学的視点からの考察もあり,「ひととして生きる」ことの全体について書いた本となっている.

手加減なしの文章のため,何を言っているのか分からないところも多い(だからこそ大学入試でよく出たりするんだろう).また,分かりやすい「主張」や「結論」が用意されているわけでもない.それでも,非専門家でも読めるような言葉で書かれているので読み進めることができ,ところどころで,はっとするような考え方に出会う.

私が読み取れた限りでは,この本の主題の一つは,「『自分のもの』と思っているものは,実は他者から与えられるものだ」ということ.
「わたしの「こころ」はわたしには見えない.それは,わたしの名前がそうであったように,他者から贈られるものなのだ.」(p77)
そして,もう一つこの本を通底している見方として,現代に生きる人々の「存在が軽くなっている」という指摘があったように思う.存在に重みを与えるのは,やはり「他者」の存在である.にもかかわらず,社会や経済は,「自由」や「権利」が「個人」が「所有」するものという前提で成り立っているため,「存在の軽さ」が加速している.
「家族」や「死」や「自由」に関する個別の論考にも,(まったく聞いたこともない斬新な考え方,というわけではないが)鋭い指摘が多い.

**************************************

毎日,私は当たり前のように,「社会」のなかの「個人」として,「人権」に守られて,「責任」を果たしながら,「家族」とともに生きている.だが,それらの概念が,実は訳の分からないものであることに気付かされる場面がある.たとえば,
・「家族」のとらえ方について,自分の家族のメンバーとの間での不一致に気付いたとき.
・身内が生活保護を受ける資格がないと言われたとき.
・精神病などで,人格が破たんした人を目の前にしたとき.
・なかなか寝付けない夜,あるいは,腹痛など身体の痛みに襲われるとき.
普段の生活が,底が抜けたものの上に乗っかっていることに気付く.

それから,もう一つ.
つい最近,理研のプレスリリースで「ネズミに偽の記憶を植え付けることに成功した」という記事があった.脳研究の発展により,そういうサイボーグ的な技術がどんどん実現性を増すにつれて,「人とはなにか」「自由とはなにか」といったことについて,誰もが考えざるを得ない時代になるのも間違いない.

理系の本ばかり読んでいると,「統計」も「調査」も「実験」も出てこない(あるいは定理や証明の出てこない)本書のような(一般向けの)哲学書が新鮮に思えた.
しかし,訳のわからないものごとに取り囲まれていることに気付いてそれらについて本気で考えたいと思うとき,読むべきはなにかの「データ」に基づいた本ではなく,一人の哲学者の「論考」なのかもしれない.佐藤文隆さんも言っていた(『科学にすがるな!』岩波書店)ように,「人が「ひと」や「生きること」や「死ぬこと」」をどういうふうに生死に関わることについては,科学には答えられないので.
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