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12.14
Sun
先日,科学史の論文の読書会に参加させていただいた.アメリカの科学史学会が出している専門誌ISISのなかにあるFocus(特集セクション)の論文を,皆で手分けして読むという勉強会.今回のテーマは“naturalistic fallacy ”だった.

“Naturalistic fallacy”は,日本語で言うと「自然主義的誤謬」.「~である」という事実の記述から,「~すべきである」というモラルに関わる命題を引き出してしまうという「あやまり」のことだ.

※ “なんとか fallacy”(「~的誤謬」)は,文系の本を読んでいるといろいろ出てくるが,naturalistic fallacyは今回初めて聞く言葉だった.

※※ 実は,naturalistic fallacyはこう定義すべきではないということ,そしてそれが「あやまり」とも言い切れないということが,Focusの論点の一つになってくる.それについてまとめる力はないので,このブログでは触れない.

勉強会では,科学史・科学哲学のプロたちの議論が交わされたのだが,論点を追いかけるのに精一杯で,理解できたとはとてもいえない.しかし,プロだけじゃなく自分のような素人にとっても「自然主義的誤謬」について考えることは重要だという直観は,勉強会を終えたあとますます強くなった.ここでは,現時点で理解しえたことをまとめてみたい.

***

まず,なぜ「自然主義的誤謬」が問題になるのか.それは,僕らの周りに確かに存在し,それが確かに誤謬であるように思われ,有害にすらなりうるからだろう.

ちょっと考えてみると,典型的な自然主義的誤謬は,いまでは起こりにくいのではないかとも思える.17・18世紀の自然主義的誤謬の例のなかには,いまから思うと滑稽としか思えないものも多い(ニュートン力学を根拠にした君主制の正当化,などなど).自然に対する考え方が洗練されてきたともいえるだろうし,それにもまして,昔に比べて倫理的規範が相対化されてきていることもあるように思う(祖父母の世代に比べて,自分たちのほうが多様な価値観に対して寛容になっている感はないだろうか).でも,いまでは自然主義的誤謬は無くなったのか.個人的には,そんなこともないように思う.

高校時代の地学のM先生のことを思い出す.天文学や地球の進化の歴史を教えてくれたM先生は,なんでも地球史・人類史のレベルでものごとを考える癖があって,「地球46億年の歴史を考えれば○○だ」とか,「人類は××のように生きるべきだ」という言い方をよくされた.当然(?),高校生の僕らはそこに説得力を感じなかったわけで,人間がそういうふうに進化してきたからといって,僕らが今日なにか(受験勉強etc)をしなければいけない理由にはならないと思った.先生が地球科学の知識を自身の人生の指針として取り入れているのは分かったけれど,どこかで無理のある人生観だと思われた(ただ,先生自身が僕らに「だから勉強しろ」などと言っていたわけではないし,僕個人はM先生に魅力を感じてもいた).

M先生のような人は多くないかもしれないが,「人間の分を超えて××してはいけない」という言い方は今でもよく聞く気がする.たとえば,都市部に密集して住むとか,原発をつくるとかいうことをしてはいけない理由に,「人間とはこういうものだから」ということを持ち出されることあるが,そうした論理は,自然主義的誤謬に含まれるかもしれない.もちろん「そうしないと体の調子が悪くなるから」とか「人類が生き残れないから」という中間的な理由がある場合は問題ない.けれど「人間とはそういうものだから」だけを理由にされると,おかしなことになる.「日本人に生まれたからには○○しなくてはいけない」とか「生物の本性は○○だから××しなくてはいけない」という論法は,すべて「自然主義的誤謬」のそしりを受けてよいものだろう.

いまでも自然主義的誤謬として糾弾すべき事象は存在するとして,なぜそうなのか.一つには,僕らはモラルを誰かに与えられないと安心できないということがあるだろう.モラルの根拠として,科学に代表されるような事実の記述は魅力的だ.だからこそ,たとえばモラルの進化論的起源が精力的に研究されることになる(最近,書店にいくと「利他性の起源」とか「モラルの起源」をテーマにした本が本当に多い).自分たちのなかに,科学的な理由でモラルがあることを確認できるのは安心につながることでもあるのだろう.しかし,ここで注意すべきことがある.それは,そのモラルの起源が科学的に説明できることと,自分がそのモラルに従うかどうかはまったく別物だということだ.もちろん,モラルが人間の中にプログラムされていることを知ることは,行動を選ぶ上で指針にはなりうる.だが,それを知った上で,そのプログラムに従うか,あるいは逆らうかは完全に独立した問題として残されている(これが肝心!).人間は地球上で生きることに最適化された生き物だとしても,それを理由に,たとえば地球を捨てて星間航行に乗り出す人を,“道徳的に”非難することはできない.

以上のようなことが,「自然主義的誤謬」を指摘し糾弾する人(そのような人がいるとすれば)の考え方の中心なのだと理解した.科学がどんなに進歩しても,「どう生きるか」はそれとは別に決断しなくてはいけない.『科学にすがるな!』という本で佐藤文隆さんがいっていたのも,こういうことだったように思う.

***

私としては,上記のような「自然主義的誤謬」という概念の立て方に「なるほど」と共感するところがある.だが,もちろん,科学史的な検討はここから始まる.ISISの論文では,「自然主義的誤謬」は本当に誤謬ですか,とか,自然をモラルと切り離す考え方は時代に特異的なものなのではないですか,などという論点が提示されていた.そうして,自然主義的誤謬に科学史的反省を加えることで,『科学にすがるな』的見方が切り崩されうるのかは,ちょっと分からない(し,『科学にすがるな』的見方が体に染み付きすぎていてそれ以外の倫理観をイメージできない).でも,こうしたことを問えるということ自体が新鮮だった.
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