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09.27
Sat

History of Cognitive NeuroscienceHistory of Cognitive Neuroscience
(2012/10/01)
M. R. Bennett、P. M. S. Hacker 他



変わった本だった.7章構成のうちの6章までは,知覚・注意・記憶・言語・情動・運動とテーマごとに章が設けられており,それぞれの分野の主要な実験や研究成果が紹介される.そのうえで,各研究所紹介の最後には,著者らの「哲学的な批判」が加えられる.最後の7章は,著者たちの哲学的な立場がまとめられていて,Dennett,Churchland,Searlなどといった,意見を違える哲学者らからの批判にも応えている.

認知神経科学の発展を簡潔に説明した上で,そのすべてに対して「哲学的なケチ」をつけるという,大胆な本なのだ.『認知神経科学の歴史』という書名のとおり,認知神経科学の発展を知るためのよくまとまった教科書としても読めるのだが,この本の主眼は明らかに「哲学手なケチ」のほうにあるようだった.

もちろん,実験事実そのものが間違っていると言っているわけではなくて,批判の矛先となるのは実験の「解釈」やそこから導かれる「仮説」に対してだ.著者らによれば,脳について語るときにほとんどすべての人が陥っている誤謬がある.それは著者らが"mereological fallacy"と呼ぶもので,その意味するところは,「全体に対してしか与えられない性質を,その部分に与えしまうという誤謬」なのだという("mereology"とは,「ポーランドの論理学者レシニェフスキによって創始された、全体と部分の論理的関係に関する形式的理論」を指す専門用語(space ALC 英二郎より)).

どういうことかというと,僕らはすぐ「脳が知覚する」とか,「左脳が右脳にメッセージを送る」とか,「海馬が記憶を保持する」とかいうことを言ってしまうが,「知覚する」「メッセージを送る」「記憶を保持する」ことができるのは「人間(あるいは動物)」であって,その部分であるところの「脳」や「左脳」や「海馬」ではないのだ,というのが,BennettとHackerの主張である.彼らがとくに批判するのは,脳の中に,知覚を形成するための"mental image"があったり,空間認知を可能にする"mental map"があったり,記憶を貯蔵する"memory trace"があったりするという言説である.これらは,著者らによれば,「正しい/正しくない」という問題以前に,「意味をなさない」(その理由はmereological fallacyを犯しているから)ということになる.

***

この本の主張は,神経科学にとって何か生産的なものとなりうるのだろうか.「脳」や「細胞」が「認知」や「記憶」をしているというのは言葉の使い方として間違っている言うが,皆分かった上で,有効な比喩として使っているんじゃないのか.そんなことを思いながら読んでいた.「比喩」としてのこれらの用法は,たとえばコンピュータを作るうえでは,「ハードディスクに記憶させ,CPUに情報を送り…」などという風にとても役に立つ.それと同じことなのではないのか?

たとえば「記憶」に関して著者らは次のように説明する.「海馬と皮質をもっている人間が記憶能力をもつ」が意味するのは,「記憶をもとに行動するということを可能にするなんらかの脳内現象が海馬・皮質にあるということ」しか意味せず,たとえば「脳のどこかに”記憶痕跡”が貯蔵されている」ことを論理的に帰結したりはしない.それがあるはずだと思ってしまうのは"dogmatic application of an engineering principle to neurobiology"(神経生物学への工学的原理の無反省な援用)だという.

個人的には「工学的原理な援用」がなければ脳は理解できないのではないかと思っていたので,著者らには完全に同意できなかった.また,Hackerさんたちの立場が「行動主義」とどう違うのかも気になる(明確に違うのだと思うが,よくわからなかった).ただ,仮説がどんどん先に進んでしまうこの分野(ミラーニューロンなどにみられるように)において,もっとも慎重な解釈を示しているという意味で,貴重な主張なのは間違いないと思う.
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09.12
Fri

メディアの臨界―紙と電子のはざまでメディアの臨界―紙と電子のはざまで
(2014/07)
粉川 哲夫



「かつては編集者が本を作った」という書き出しに心をつかまれた.
紙の本と電子メディアの違いや,本の行く末について,ものすごく核心をついたことを語っているように思えた.

が,難解だった.
途中からは,本の話から,現代の文化や哲学一般の話になり,ポストモダンな哲学の言及が増えていったあたりでついていけなくなった.

一文一文は大事なことが書いてあるような気がするのだが,文章としてなにを言っているのかが読み取れない.
少し抜粋すると,こんなかんじ:

p.32 本をインデクスの集積として使うことによって,本の存在自体は終わらないとしても,固定した「内容」を持った本は終わる.(略)いま「実存」するメディアのなかで,もっとも「本」的なのは映画だろう.

p.34 「本」がウェブに載せられると,その「作者」は.「本」のそれとは異なるものになる.

p.39 本的なものとデータ的なものの境界線があいまいになった.傾向としては,ほんのデータ化が無自覚に進んでいる.(略)本をデータ化する最も簡単な方法は,本を見知らぬ人にタダで送りつけることだ.

p.57 電子メディアが活字メディアと異なるのは,それが,本質的にメタファー的な機能―(略)―を捨てようとしている点である.

p.74 電子テクノロジーが代補するかに見える記憶は,われわれがこれまで慣れ親しんできた記憶とは質的に異なるものである.記憶とは,基本的に場の記憶である.この場では,情報や映像,言語概念や映像情報が,想起のたびごとに更新されるのである.これは,電子的なメモリー装置の記憶のやり方とは根本的に違っている.

大量の謎をかけられたような気分になった.

日頃,「紙の本が終わって,電子書籍になる」ということを聞くと,そんな表層的なことではないのでは?と思う.
むしろ,「人々にとって本とはなにか」「作者とはだれか」「著作権は維持できるのか」という根本的なこと,さらには「情報・個人・身体などの概念がおおもとから変容しようとしているんじゃなんだろうか」という,漠然とした気分がある.

そんな気分を,この本は,言い当てているような,いないようなかんじだった.






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09.04
Thu
海外の本の参考文献の多さと謝辞に並ぶ名前の多さ.
いつも驚く.
そんなにたくさん本を読んで,そんなにたくさんの人々と交流していたら,本を書く時間なんてあるんだろうか…続きを読む
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09.01
Mon

The Myth of Mirror Neurons: The Real Neuroscience of Communication and CognitionThe Myth of Mirror Neurons: The Real Neuroscience of Communication and Cognition
(2014/08/11)
Gregory Hickok



The Myth of Mirror Neurons 読了.

「ミラーニューロン神話」というタイトルだが,ミラーニューロンを全否定する本ではなかった.ミラーニューロンは確かに「ある」し,脳を理解するうえでの重要な手がかりともなりうる.ただし,ミラーニューロンの機能についての拡大しすぎた解釈には問題がある.本書での著者の立場は,大体そんな感じだったように思う.

著者は,脳の発話や言語処理の専門家.はじめは遠くからミラーニューロンブームを見ていたのだが,次第に自分の専門である「言語」にもミラーニューロン理論が入り込んでくるようになり,段々と無視できない存在になってきたという.そこで,過去の文献を調査し,分かったことをブログに書き始めるなどしていたところ,「ミラーニューロンってなんか釈然としないな」という漠然とした疑問は,次第にミラーニューロンの通念は間違っているという確信になった.それが本書に結実した,ということらしい.

ただ,最終章で,
This book isn't just a barn-kicking excersise. (これは単に理論をぶち壊すだけのための本じゃない.)
とあるように,必ずしもミラーニューロンの研究成果や考え方を否定してはいない.ミラーニューロンにまつわる実験について冷静にレビューして,そこから何が言えて何がいえないのかをしっかり考えた本だった.

***

【内容】※以下の要約はあくまで私が読み取れた範囲です.ぜひ原著をお読みください.

1章
ミラーニューロン理論の基になっているのは,1992年にイタリア・パルマ大学のグループによって偶然に発見されたある一つの現象である.すなわち,サルが何かの行動をするときに発火するニューロンが,同じ行動を他者をするのを見ただけでも発火する.1996年には,同グループにより実験結果が再現されるとともに,この現象を示す細胞が「ミラーニューロン」と命名される.

2章
ラマチャンドラン氏がミラーニューロンを「DNAに匹敵する大発見」と表現するなど,ミラーニューロン理論は一躍,注目を集める.ミラーニューロンはマカクザルの「F5」という部位に見つかったのだが,それは,ヒトでいうと言語をつかさどるブローカ野に相当する.そこから,心理学や精神医学におよぶ「理論」に発展する.それは,ミラーニューロンは,人が他人を心を理解する能力(心の理論)や,言語の獲得のメカニズムのカギになっているのではないかというもの.自閉症の原因がミラーニューロンが正常に働いていないことにあるのではないかなど,具体的な症状や病気についての仮説も多く生まれる.

3章
ヒトにもミラーニューロンがあるらしいということが分かってくる.2009年にはfMRI habituation experimentという手法を使った実験によって,ヒトにもマカクザルと同じ意味でのミラーシステムがあるという,割と直接的な証拠が見つかった(実験の手法が異なりニューロンレベルでは確かめられていないため,「システム」という言葉が使われる).ただ,著者に言わせれば,他人の行動に応じて自分の行動を決める人間の脳に,なんらかの 「ミラーシステム」にあるのは論理的に当たり前.問題は,むしろ「ミラーシステムはなにをしているのか」という,解釈の部分にある.

4章
「ミラーニューロンは行動の”理解”するためのメカニズムである」というミラーニューロン理論には,それと寄り添わない「アノマリー」が事象がいくつもある.例えば,
・発話の理解には,発話能力は必要ないことが知られている
・メビウス症候群という表情を作れない症状をもつ人も,他人の表情を読み取ることができる
・ミラーシステムは可塑性がある.
・ミラーニューロンが「理解」をつかさどるとすると,これまで知られてきた脳の解剖学的な機能区分と齟齬をきたす
など.これらのアノマリーは,どれもミラーニューロン理論を捨て去る決定打にはならないものの,これだけ多いとなれば,別理論を考えたほうがいいのではないか.

5章
言語の獲得にミラーニューロンが役割を果たしているという仮説がある.これは,50年以上前に流行った"the motor theory of speech perception"という理論と深い関係がある.1980年代にはmotor theoryは否定されたにも関わらず,2000年代に復活.しかし,発話の理解に運動機能は必要ないことは証明されている.

6章
ミラーニューロン仮説の背後には「身体化された認知(embodied cognition)」という,流行のアイディアがある.心理学の流れを振り返ると,まず行動主義があり,それに対するアンチテーゼとして,「計算論的な心の理論」(あるいは「情報処理」モデル)が出てくる."embodied cognition"の考え方が出てきたのは,素朴な「情報処理モデル」が前提とする,脳が感覚入力→高次の情報処理→運動出力という3段階の構造になっているというモデルに合わない事実が明らかになってきたからだった.そのような3段階の構造は,"classical sandwich conception of the mind"として,悪役に仕立てられた.しかし,著者に言わせれば,「身体化された認知」は,単に抽象的な概念が「感覚」や「運動」と切り離せないことを明らかにしただけで,本質的に「情報処理モデル」と対立するものではない.

7章
ミラーニューロンが「理解のメカニズムである」という説が怪しいとすると,本当の「理解」はどこで起こっているのか.ミラーニューロン理論より良いモデルは作れるか.著者のよりどころとなるのは,脳が持つ階層的な構造と,「”なに”経路」と「”どうやって”経路」の2経路に分けて脳が計算タスクを二つに分けて処理している,という事実である.そこから,著者が"hybrid, hierarchical model of conceptual representation"と呼ぶ情報処理の機構を提示する.

8章
ミラーニューロンは本当は何をしているのか.主流のミラーニューロン理論によると,ミラーニューロンは模倣(イミテーション)を可能にし,模倣は相手の心を理解する(=「心の理論」)ことの第一歩だとされる.しかし,著者の意見では,それは論理的誤りである.イミテーションは意外と難しい.ミラーニューロンをもつマカクザルは実は模倣しない.つまり,ミラーニューロンだけではイミテーションできない.Cecilia Heyesという心理学者の説では,ミラーニューロンの持つ性質は,純粋な連合学習によってつくられる.つまり,自分の行動とその視覚との結びつけで形成されるというのだ.著者の解釈も「古典的な条件づけ」というもの.また,パルマの実験では,ミラーニューロンの中には実はミラーしていないニューロンもあった.むしろ「観察した行動」に応じた「自分の行動」をするようなニューロンの活動も見られた.初期の段階で,それらの「鏡になってない」ミラーニューロンにはじめから注目していたら,違う理論が構築されてきたんじゃないか,と著者は指摘する.

9章
自閉症とミラーニューロンを結びつけた「壊れた鏡」理論は,今では否定的な研究者も多い.著者の考えでは,自閉症は何かの欠如ではなく,何かの過剰によって引き起こされると考えたほうが良い.

10章
ミラーニューロンの活動が「行動の理解」に他ならないとする理論は,説明力をもたない.パルマ大学のメンバーを始め,多くの研究者がミラーニューロンのalternativeな理論を作っている.つまり,ミラーニューロンから「理解」の機能を除外した見方が増えてきている.一例として,ミラーニューロンの役割はpredictionに関わるのではないか,などと考えられている.

理論的流行は振り子のように振れている.計算論的な理論から,身体化された脳へ.
振り子が振れること自体は肯定的にとらえるべきだ,と著者は言う.今後の見通しを以下のように述べている.

I predict that mirror neurons will eventually be fully incorporated into a broad class of sensorimotor cells that participate in controlling action using a variety of sensory inputs and through a hierarchy of circuits.

(いろいろなことが分かってくるにつれ,ミラーニューロンは大きな理論の一部に収まり,やがて,ミラーニューロンの特別扱いは終わるのではないか,ということなのだろう.そして,いまの脳科学の段階では,脳の中にどんなに驚くべき細胞が見つかったとしても,それは大きな機構の一部の「影」にすぎなくて,そうやすやすと細胞生物学におけるDNAのような「機構の確信部」に突き当たることはないのだろうと思う.)



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