03.20
Thu
先日,指導教官の先生から連絡がきた.
私の修士のときの研究が査読論文として受理されたとのことだった.論文に仕上げるのは先生と後輩にお任せしたので,とても「自分の論文」といえるものではないのだけれど,やっぱり業績ができるというのは嬉しいものだった.(ちなみに,研究の内容は「ある機械学習の方法を使って,顕微鏡の動画データから細胞位置の割り出す方法を考案した」というもの.)
その半面,《…この論文に価値はあるんだろうか?》と思ってしまう.
正直いって大した成果ではない.いくつかの先行手法をお手本にして,それを少しばかり改良した.先行研究に対して良い部分は当然ある(そうじゃなかったら論文にならない)んだけど,劣る面も少なからずある.いろんなことを客観的に判断して,この手法が使いやすいともいえない.
つまり,重箱のスミをつつくような研究.それでも,修論を形にするのは大変だった.このような地味なことの積み重ねが科学研究であるのなら,研究というのはなかなかしんどいものだなあ...
というのが,査読論文を一つだけ世に出すことができた私の感想です.
けれど,世の中には,1人で数百本の論文を世に出しているようなツワモノがいる.
そういう研究の達人からはどんな風景がみえているんだろう.
そこまでいけば,「役に立つ研究をしている」という実感は得られるのだろうか?
***
「ヒラノ教授シリーズ」の最新刊.
著者の今野先生は,その研究者人生で150編の査読論文を出した研究の達人だ.その多くが,本書のテーマになっている「線形計画法」に関わるものだったという.
線形計画法は,「線や面で囲まれた領域の中から目的関数を最大化する点をもとめる」という問題.それ自体はいたってシンプルな問題にもかかわらず,著者の師事したジョージ・ダンツィクを中心とする数多くの研究者たちが,半世紀以上にわたり線形計画法のアルゴリズムの「改良」に携わってきた.
そんな「改良」に意味があるのか?
「大いにある」ということが,この本を読むと分かる.
・線形計画法(および発展系の最適化問題)の適用範囲が広い.
・問題はどんどん大型化している(実社会では1000万単位の変数をもつ大型問題がでてきたりする)
・「大きな問題を速く解く」ことにおいて,ハードウェアの進化以上にアルゴリズムの改良が貢献してきた
一つ一つの論文の「改良」は微々たるものかも知れないけれど,何十年も掛けて,人類は線形計画問題を解く力を着々と向上させてきた.そして,いまなおその計算効率向上にしのぎを削っている人たちがいる.なんだか感動的だった...
著者自身も,その一翼を担ってきた一人なのだが,著者が1研究者として,どうやって研究テーマを選び,いかにして問題を解いてきたかということもこの本で描かれている.
著者にとって,生涯の業績の基礎になったのが「線形計画法」を若いときにじっくり学んだことだったらしい.
p.149 これだけ多くの論文を書くことができたのは,旧約・新約両聖書で線形計画法をきちんと勉強したおかげである.
p.48 本格勉強法で〈わかった感覚〉を手に入れた四科目の知識は,一生の財産になった.一方,パラシュート勉強法で取り組んだ四科目の知識は… 試験が終わったあとたちまちカリフォルニアの空に飛び去った
著者にとっての線形計画法に相当する,「一生ものの知識」が自分にはあるだろうか,と考えてしまった.
***
研究者を目指す人,あるいは(私のように)かつて研究関わった人にも,お勧めの一冊です.
自分が掘れる「鉱脈」を掘り進んだ結果,たくさんの世の中の役に立つ数学を生み出すことのできたヒラノ教授の言葉に勇気づけられます.
私の修士のときの研究が査読論文として受理されたとのことだった.論文に仕上げるのは先生と後輩にお任せしたので,とても「自分の論文」といえるものではないのだけれど,やっぱり業績ができるというのは嬉しいものだった.(ちなみに,研究の内容は「ある機械学習の方法を使って,顕微鏡の動画データから細胞位置の割り出す方法を考案した」というもの.)
その半面,《…この論文に価値はあるんだろうか?》と思ってしまう.
正直いって大した成果ではない.いくつかの先行手法をお手本にして,それを少しばかり改良した.先行研究に対して良い部分は当然ある(そうじゃなかったら論文にならない)んだけど,劣る面も少なからずある.いろんなことを客観的に判断して,この手法が使いやすいともいえない.
つまり,重箱のスミをつつくような研究.それでも,修論を形にするのは大変だった.このような地味なことの積み重ねが科学研究であるのなら,研究というのはなかなかしんどいものだなあ...
というのが,査読論文を一つだけ世に出すことができた私の感想です.
けれど,世の中には,1人で数百本の論文を世に出しているようなツワモノがいる.
そういう研究の達人からはどんな風景がみえているんだろう.
そこまでいけば,「役に立つ研究をしている」という実感は得られるのだろうか?
***
![]() | ヒラノ教授の線形計画法物語 (2014/03/15) 今野 浩 商品詳細を見る |
「ヒラノ教授シリーズ」の最新刊.
著者の今野先生は,その研究者人生で150編の査読論文を出した研究の達人だ.その多くが,本書のテーマになっている「線形計画法」に関わるものだったという.
線形計画法は,「線や面で囲まれた領域の中から目的関数を最大化する点をもとめる」という問題.それ自体はいたってシンプルな問題にもかかわらず,著者の師事したジョージ・ダンツィクを中心とする数多くの研究者たちが,半世紀以上にわたり線形計画法のアルゴリズムの「改良」に携わってきた.
そんな「改良」に意味があるのか?
「大いにある」ということが,この本を読むと分かる.
・線形計画法(および発展系の最適化問題)の適用範囲が広い.
・問題はどんどん大型化している(実社会では1000万単位の変数をもつ大型問題がでてきたりする)
・「大きな問題を速く解く」ことにおいて,ハードウェアの進化以上にアルゴリズムの改良が貢献してきた
一つ一つの論文の「改良」は微々たるものかも知れないけれど,何十年も掛けて,人類は線形計画問題を解く力を着々と向上させてきた.そして,いまなおその計算効率向上にしのぎを削っている人たちがいる.なんだか感動的だった...
著者自身も,その一翼を担ってきた一人なのだが,著者が1研究者として,どうやって研究テーマを選び,いかにして問題を解いてきたかということもこの本で描かれている.
著者にとって,生涯の業績の基礎になったのが「線形計画法」を若いときにじっくり学んだことだったらしい.
p.149 これだけ多くの論文を書くことができたのは,旧約・新約両聖書で線形計画法をきちんと勉強したおかげである.
p.48 本格勉強法で〈わかった感覚〉を手に入れた四科目の知識は,一生の財産になった.一方,パラシュート勉強法で取り組んだ四科目の知識は… 試験が終わったあとたちまちカリフォルニアの空に飛び去った
著者にとっての線形計画法に相当する,「一生ものの知識」が自分にはあるだろうか,と考えてしまった.
***
研究者を目指す人,あるいは(私のように)かつて研究関わった人にも,お勧めの一冊です.
自分が掘れる「鉱脈」を掘り進んだ結果,たくさんの世の中の役に立つ数学を生み出すことのできたヒラノ教授の言葉に勇気づけられます.
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03.12
Wed
※STAP細胞の件について一言
いまだにどう考えていいのか分からない.こういうことが起こりうる背景して,なんとなく考えられるのは,今の科学者にとって「論文を書く」のが至上命題になっているということだ.たしかに,僕らの修士の研究のレベルですら「嘘をつかない範囲で最大限に誇張し,正当性を主張する」ということはあった.しかし今回は,今まで前例のないほど大胆なmisconductが行われていたようだ.いったいなんのために...
しかも,Nature誌や理化学研究所などという,科学の一流の現場で起こったとなると,今後の波紋は大きそうだ.この先歴史に残る事件になるかもしれない.
一方で,この事件への人々の反応は興味深い(と思ってしまう).個人を糾弾する人,大学・研究所の体質を問う人,ジャーナルの査読制度の陥穽だと見なす人など,視点は様々だ.多くの人は「今後の精査を望む」というような少し距離をとった言いするけれど,これは,科学に少しでも関わる身としては,自分の問題として追いかけていくべきなのではないかと思う.「自分たちがやっている科学とは,今どういうものなのか」を考える絶好の機会として.
さて,〈最近読んだ本>.
数々の数学のスーパースターを輩出してきた京大数理解析研究所の歴史と,そこに活躍した(活躍中の)数学者たちの姿を描いた本.数学の分野ごとに,歴史を50年くらいさかのぼり,いろいろな数学者を登場する(有名なところでは,伊藤清,佐藤幹夫,森重文,望月新一など).数学の内容についての記述もかなり詳しく,半分以下しか分からなかった.それでも,著者自身が,数学と数学者のことを深く愛していることはよく伝わってきた.
個人的に面白いなと思ったのは,物理や数理工学への「応用」と,純粋数学の間を行き来しながら数学が発展していたということ.そもそもの「数理解析研究所」が,応用を念頭に創設された研究所だとは意外だった.
本書のタイトルは「古都がはぐくむ~」となっているが,異なる分野の人が,積極的に交流する風土が京都にはあるらしい.そういえば,京都在住の別の数学者の方も,そのように言っていた.京都に行ってみたくなった.
天気予報,ギャンブル,野球のスカウト,地震,気候変動など,さまざまジャンル「予測」を取り上げ,どの「予測」は当たって,どれは外れて,それはなぜなのかを解説している.
著者は実際に「大統領選挙の結果予測」や「野球の勝敗予測」で結果を出しているデータサイエンティストだけに,話が具体的で楽しかった.
興味深かったのは,著者は「特定の理論に頼った予測は失敗する」として,理論ではなくデータから予測を組み立てるべきと主張しながらも,「理論を捨ててはいけない」と言っているように聞こえることだった.
p.445 これだけは言いたい.科学は自分の仕事にとってそれほど重要でないという予測者,あるいは,予測は自分の仕事にとってそれほど重要でないという科学者には気をつけたほうがいい.この2つの活動は本質的に切り離せないものだ.
つまり,「予測」をするには,使える「科学」は使わないといけないということだ.
いろんな予測を成功させている著者だけに説得力がある.
「ノイズに埋もれたシグナルをいかに取り出すか」というのが本書の主題なのだけど,そもそも何が「シグナル」で何が「ノイズ」か,などについての深い話はなかった.そのあたりのことは『偶然とは何か――その積極的意味 』(竹内啓,岩波新書) に書いてあったような記憶があるので,読みなおしてみよう.
「なぜ,数学の哲学は存在するのか」.
個々の哲学的議論は,いろいろな知識が前提されていて,なかなかついて行けなかった.
いくつか本書から受け取ることができたことを箇条書きにしてみる.
・数学の哲学は,古今東西の人が関心を払ってきた普遍的な問題("perennial topic")を扱っている.
(ただ,数学の哲学に興味をもつのは,人間全体からすると,ごく一部だということを忘れてはいけない.)
・数学の哲学が扱う問題とは,①「証明とは何か」②「なぜ数学は使えるのか」.これに尽きる.
・「直観」について語るのはナイーブで,プロは「直観」という言葉を避けている.
・2000年以上心ある人たちが考え続けてきたにも関わらず,①と②への答えは出ていない.
哲学的考察で僕の何百周も先を走っているHackingさんでも,数学の哲学の2つの謎について,それが「謎」として残されているという認識では同じなのだ,ということは伝わってきた.
いま読んでいる『数学を哲学する』(シャピロ)は教科書的なので,そちらを先に読むべきだったかも知れない.この本には,もう一度チャレンジしたい(たとえば,たとえば「Hackingさんはどう『自然主義者ではない』のか.」など考えたい.)
いまだにどう考えていいのか分からない.こういうことが起こりうる背景して,なんとなく考えられるのは,今の科学者にとって「論文を書く」のが至上命題になっているということだ.たしかに,僕らの修士の研究のレベルですら「嘘をつかない範囲で最大限に誇張し,正当性を主張する」ということはあった.しかし今回は,今まで前例のないほど大胆なmisconductが行われていたようだ.いったいなんのために...
しかも,Nature誌や理化学研究所などという,科学の一流の現場で起こったとなると,今後の波紋は大きそうだ.この先歴史に残る事件になるかもしれない.
一方で,この事件への人々の反応は興味深い(と思ってしまう).個人を糾弾する人,大学・研究所の体質を問う人,ジャーナルの査読制度の陥穽だと見なす人など,視点は様々だ.多くの人は「今後の精査を望む」というような少し距離をとった言いするけれど,これは,科学に少しでも関わる身としては,自分の問題として追いかけていくべきなのではないかと思う.「自分たちがやっている科学とは,今どういうものなのか」を考える絶好の機会として.
さて,〈最近読んだ本>.
![]() | 古都がはぐくむ現代数学: 京大数理解析研につどう人びと (2013/11/20) 内村直之 |
数々の数学のスーパースターを輩出してきた京大数理解析研究所の歴史と,そこに活躍した(活躍中の)数学者たちの姿を描いた本.数学の分野ごとに,歴史を50年くらいさかのぼり,いろいろな数学者を登場する(有名なところでは,伊藤清,佐藤幹夫,森重文,望月新一など).数学の内容についての記述もかなり詳しく,半分以下しか分からなかった.それでも,著者自身が,数学と数学者のことを深く愛していることはよく伝わってきた.
個人的に面白いなと思ったのは,物理や数理工学への「応用」と,純粋数学の間を行き来しながら数学が発展していたということ.そもそもの「数理解析研究所」が,応用を念頭に創設された研究所だとは意外だった.
本書のタイトルは「古都がはぐくむ~」となっているが,異なる分野の人が,積極的に交流する風土が京都にはあるらしい.そういえば,京都在住の別の数学者の方も,そのように言っていた.京都に行ってみたくなった.
![]() | シグナル&ノイズ 天才データアナリストの「予測学」 (2013/11/28) ネイト・シルバー |
天気予報,ギャンブル,野球のスカウト,地震,気候変動など,さまざまジャンル「予測」を取り上げ,どの「予測」は当たって,どれは外れて,それはなぜなのかを解説している.
著者は実際に「大統領選挙の結果予測」や「野球の勝敗予測」で結果を出しているデータサイエンティストだけに,話が具体的で楽しかった.
興味深かったのは,著者は「特定の理論に頼った予測は失敗する」として,理論ではなくデータから予測を組み立てるべきと主張しながらも,「理論を捨ててはいけない」と言っているように聞こえることだった.
p.445 これだけは言いたい.科学は自分の仕事にとってそれほど重要でないという予測者,あるいは,予測は自分の仕事にとってそれほど重要でないという科学者には気をつけたほうがいい.この2つの活動は本質的に切り離せないものだ.
つまり,「予測」をするには,使える「科学」は使わないといけないということだ.
いろんな予測を成功させている著者だけに説得力がある.
「ノイズに埋もれたシグナルをいかに取り出すか」というのが本書の主題なのだけど,そもそも何が「シグナル」で何が「ノイズ」か,などについての深い話はなかった.そのあたりのことは『偶然とは何か――その積極的意味 』(竹内啓,岩波新書) に書いてあったような記憶があるので,読みなおしてみよう.
![]() | Why Is There Philosophy of Mathematics At All? (2014/01/08) Ian Hacking |
「なぜ,数学の哲学は存在するのか」.
個々の哲学的議論は,いろいろな知識が前提されていて,なかなかついて行けなかった.
いくつか本書から受け取ることができたことを箇条書きにしてみる.
・数学の哲学は,古今東西の人が関心を払ってきた普遍的な問題("perennial topic")を扱っている.
(ただ,数学の哲学に興味をもつのは,人間全体からすると,ごく一部だということを忘れてはいけない.)
・数学の哲学が扱う問題とは,①「証明とは何か」②「なぜ数学は使えるのか」.これに尽きる.
・「直観」について語るのはナイーブで,プロは「直観」という言葉を避けている.
・2000年以上心ある人たちが考え続けてきたにも関わらず,①と②への答えは出ていない.
哲学的考察で僕の何百周も先を走っているHackingさんでも,数学の哲学の2つの謎について,それが「謎」として残されているという認識では同じなのだ,ということは伝わってきた.
いま読んでいる『数学を哲学する』(シャピロ)は教科書的なので,そちらを先に読むべきだったかも知れない.この本には,もう一度チャレンジしたい(たとえば,たとえば「Hackingさんはどう『自然主義者ではない』のか.」など考えたい.)

先週の土曜日に、結婚式を挙げた。
披露宴には、会社でお世話になっている方々や
友人・親族など40人弱の方を招き、
その後、友人・同僚を招待しての2次会パーティをおこなった。
大体一年前から準備を始めて、
とくにここ一ヶ月間は準備が忙しいのと
緊張とで落ち着かない日々だった。
まずは無事に終わってなによりだ。
ふー(安堵のため息)。
準備しているときには、
そもそも結婚式ってなんのためにするのか、
よく分かってなかった気がする。
(女性は大きなドレスを着る一生に一度の機会だし、
親や親戚が自分の晴れ姿を見て喜んでくれるのならやってみよう
くらいのつもりだったろうか?)
しかし当日、何人かに「いつのまにか大人になったね」と言われた。
それを聞いたときに、なんだか腑に落ちた。
結婚式は、
(会場の人の力を借りてではあるけれど)食事に招いたり、
(儀礼的にではあるけれど)お祝いに対してお返しをしたり
(マニュアル通りではあるけれど)謝辞を述べたり、
そういうことを会社の上司、友人、親族など
周りの人に対してするほとんど初めての機会だ。
それを、なかば形式的にやることによって、
大人として二人を認めてもらう儀式でもあるんだと気づいた。
(もちろんそれは、見た目だけのことで、
実際に大人になったかどうかとは本当は関係ないのだけれど…)
多くの人にそういう目で見ていただけたことが、なんかとてもうれしく、
漠然と「これからも生きていける」という気分になった。
(妻も、大体同じ感想なんじゃないかと思う。)
***
「結婚式っていいものだな」と思いました。
そんな感想をもったことが、自分としてはかなり意外だったので、
ここに書いた次第です。
よい夫婦になれるよう精進します。

03.06
Thu
昨日,この本について話す機会があったので,以前書いたブログ記事を再掲します.
人間や動物に備わる数に対する感覚=数覚にまつわる研究史と著者の研究をまとめた書.
この本の著者:Stanislas Dehaeneに注目したのは,ウェブ上で彼の書いた短い記事を読んだのがきっかけだった.そのタイトルが”Space, Time and Number: a Kantian research program” というもので,これが衝撃的だった.「人間の心が作り出す時間・空間・数学的直観」という哲学を打ち出したのはカントだが,その哲学に,神経科学・心理学の手法からアプローチしていける時代になったという表明をしていた.なんと,一番面白いところを突いている!と思ったので,Dehaene が具体的どんな研究を行ってきたのか知りたくてこの本を読むことにした.
まずは結論から.
最終章では数学に関する立場を3つ 紹介している.第一はプラトン主義.これは人間を離れた数学的心理が実在し,数学者はそれを発見していくのだとする立場である.第二の形式主義は,数学は 演繹的推論でつながった公理体系だとするもの.それに対して,著者は第三の「直観主義」をとる.直観主義は,数学は人間の心が作り出すとする考え方で,デカルト,パスカル,カントにルーツを持つという.「数学とは何か」という問いに対するこれら3つの立場は,主義や趣向の違いと考えられそうなものだが,そこに神経科学・心理学が入ってくると問題は別の様相を呈し始める.つまり実験を通じて,数学の成り立ちについて白黒つけられる可能性が出てくる.著者は,数覚にまつわる過去の研究は,脳が数学を作り出したとする「直観主義」を証拠づけるものだと主張する.
pp.424数学の性質に関するこれまでの理論の中で,直観主義が算術と人間の脳の関係について,もっとも良い説明を与えるように私は思う.算術に関する心理学のここ数年の発見は,直観主義を支持する,カントもポアンカレも知らなかった新しい議論をもたらした.
1章から8章まで,その「証拠」となるようなさまざまな研究を紹介している.そのうちの一部をあげると:
・動物も数覚をもつ:ラットに刺激の回数を数えさせる行動実験から,ラットも数を数えることができることが示された/チンパンジーは足し算を伴う数の大小比較を行うことができる.数覚は進化的産物であることが示唆される.
・人間の赤ちゃん:0歳児は,もの色や形よりも早く,数が変わることに対する区別を身につける.これは数の概念は4,5歳児で初めて芽生えるという「ピアジェの構成主義」を否定する結果である.
・人間の成人に対する心理実験:数の把握は4以上で急激に悪化する.数の大小比較はその差が大きいほど,またその2つの数が大きいほど,時間がかかる.これらのデジタルに数を扱うコンピュータに決して見られない性質である.脳はアナログに数を扱う.(天秤の比喩)
・ 脳損傷患者の所見:量の比較の能力と(掛け算などの)算術能力がそれぞれ特異的に損なわれた患者がいる.分離脳の患者は,左半球にしか言語と暗算の課題を行うことができない.下頭頂野を損傷した患者は(引き算をはじめとする)計算ができなくなる.一方で,大脳基底核を損傷した患者は算術表を使った(掛け算など)ができなくなる.これらのことから,数学の能力はある局所的な脳のモジュールで行われるが,複数の部位が協力していることが分かる.
・イメージングや電気測定:暗算時の脳の活動をfMRIで測定すると,やはり「掛け算」と「大小比較」で異なる活動パターンが得られる.脳波測定では,「文字の認識」と「数字の認識」で別の部位かevent related potentialが発生する.てんかん患者に対する電極による測定では,顔/文字/数字にそれぞれ特異的に反応する細胞が見つかっている.これらのことから,やはり脳の中には数を専門に扱う部位が存在することが示唆される.
これらの事例を通して著者が言いたかったことの一つは,「数学能力は言語能力に還元されるものではない.それらは脳の別の機能が担っている」ということだ.数学が言語に還元されるなら,数を扱えるのは言語を扱える人間のみであるということになる.そして言語の上に構築される数学は,言語に依存した純粋な構成 物だということになる(→形式主義).しかし,この本の数々の研究が示しているのは,数覚を脳が別建てで持っている(→直観主義)ということだ,と著者は言いたいのだと思う.これはどうだろう.これらの実験からはまだそのような結論を出すのは早い気もするが…いずれにしても眠れないくらい面白い問題設定だ.
ところどころ,研究史や数にまつわる歴史の面白エピソードが挿入されていた(計算する馬ハンス,人間の数字表記システムの進化,算術記憶の自動化,天才数学者ラマヌジャンについて,などなど).神経科学・心理学の数覚に関する知見をもとにした,数学教育の在り方についての著者の意見にも多くのページが割かれていた.
![]() | 数覚とは何か?―心が数を創り、操る仕組み (2010/07) スタニスラス ドゥアンヌ |
人間や動物に備わる数に対する感覚=数覚にまつわる研究史と著者の研究をまとめた書.
この本の著者:Stanislas Dehaeneに注目したのは,ウェブ上で彼の書いた短い記事を読んだのがきっかけだった.そのタイトルが”Space, Time and Number: a Kantian research program” というもので,これが衝撃的だった.「人間の心が作り出す時間・空間・数学的直観」という哲学を打ち出したのはカントだが,その哲学に,神経科学・心理学の手法からアプローチしていける時代になったという表明をしていた.なんと,一番面白いところを突いている!と思ったので,Dehaene が具体的どんな研究を行ってきたのか知りたくてこの本を読むことにした.
まずは結論から.
最終章では数学に関する立場を3つ 紹介している.第一はプラトン主義.これは人間を離れた数学的心理が実在し,数学者はそれを発見していくのだとする立場である.第二の形式主義は,数学は 演繹的推論でつながった公理体系だとするもの.それに対して,著者は第三の「直観主義」をとる.直観主義は,数学は人間の心が作り出すとする考え方で,デカルト,パスカル,カントにルーツを持つという.「数学とは何か」という問いに対するこれら3つの立場は,主義や趣向の違いと考えられそうなものだが,そこに神経科学・心理学が入ってくると問題は別の様相を呈し始める.つまり実験を通じて,数学の成り立ちについて白黒つけられる可能性が出てくる.著者は,数覚にまつわる過去の研究は,脳が数学を作り出したとする「直観主義」を証拠づけるものだと主張する.
pp.424数学の性質に関するこれまでの理論の中で,直観主義が算術と人間の脳の関係について,もっとも良い説明を与えるように私は思う.算術に関する心理学のここ数年の発見は,直観主義を支持する,カントもポアンカレも知らなかった新しい議論をもたらした.
1章から8章まで,その「証拠」となるようなさまざまな研究を紹介している.そのうちの一部をあげると:
・動物も数覚をもつ:ラットに刺激の回数を数えさせる行動実験から,ラットも数を数えることができることが示された/チンパンジーは足し算を伴う数の大小比較を行うことができる.数覚は進化的産物であることが示唆される.
・人間の赤ちゃん:0歳児は,もの色や形よりも早く,数が変わることに対する区別を身につける.これは数の概念は4,5歳児で初めて芽生えるという「ピアジェの構成主義」を否定する結果である.
・人間の成人に対する心理実験:数の把握は4以上で急激に悪化する.数の大小比較はその差が大きいほど,またその2つの数が大きいほど,時間がかかる.これらのデジタルに数を扱うコンピュータに決して見られない性質である.脳はアナログに数を扱う.(天秤の比喩)
・ 脳損傷患者の所見:量の比較の能力と(掛け算などの)算術能力がそれぞれ特異的に損なわれた患者がいる.分離脳の患者は,左半球にしか言語と暗算の課題を行うことができない.下頭頂野を損傷した患者は(引き算をはじめとする)計算ができなくなる.一方で,大脳基底核を損傷した患者は算術表を使った(掛け算など)ができなくなる.これらのことから,数学の能力はある局所的な脳のモジュールで行われるが,複数の部位が協力していることが分かる.
・イメージングや電気測定:暗算時の脳の活動をfMRIで測定すると,やはり「掛け算」と「大小比較」で異なる活動パターンが得られる.脳波測定では,「文字の認識」と「数字の認識」で別の部位かevent related potentialが発生する.てんかん患者に対する電極による測定では,顔/文字/数字にそれぞれ特異的に反応する細胞が見つかっている.これらのことから,やはり脳の中には数を専門に扱う部位が存在することが示唆される.
これらの事例を通して著者が言いたかったことの一つは,「数学能力は言語能力に還元されるものではない.それらは脳の別の機能が担っている」ということだ.数学が言語に還元されるなら,数を扱えるのは言語を扱える人間のみであるということになる.そして言語の上に構築される数学は,言語に依存した純粋な構成 物だということになる(→形式主義).しかし,この本の数々の研究が示しているのは,数覚を脳が別建てで持っている(→直観主義)ということだ,と著者は言いたいのだと思う.これはどうだろう.これらの実験からはまだそのような結論を出すのは早い気もするが…いずれにしても眠れないくらい面白い問題設定だ.
ところどころ,研究史や数にまつわる歴史の面白エピソードが挿入されていた(計算する馬ハンス,人間の数字表記システムの進化,算術記憶の自動化,天才数学者ラマヌジャンについて,などなど).神経科学・心理学の数覚に関する知見をもとにした,数学教育の在り方についての著者の意見にも多くのページが割かれていた.