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08.21
Wed
この一年で電子書籍が一気に身近なものとなった.
2012年にはamazonがkindleのサービスを日本で開始,その他の電子書店・書店・取次なども相次いで電子書籍の販売を開始あるいはアイテム数の大幅な拡充した.読者にとっては「kindle fire買おうかな? ipadの方がいいかな?」という話題のネタになったが,一方で本を書く立場にある人にとっては,電子出版が現実味を帯びてきたことを意味する.そのためか,出張先の大学の先生に電子書籍について聞かれることが多かった.「電子書籍ってどうなの?おたくの会社ではやっているの?」そのとき,残念なことに「どうなんでしょうねー」という返事しか出来なかった.後から考えると,それってたとえばポケベルを作っている人が「携帯電話ってよく知りません」と言っているようなもので,なんか悲壮な感じもする.少なくとも二言三言は言えるようになっておけば良かったと思った.そこで,この場を借りて,電子書籍はどういう存在なのかについて少し考えてみることにする.

実際,電子書籍は世界で広がり続けている.アマゾンでは,英語の本では200万点以上の本が電子書籍として販売されているらしく,アマゾン以外での電子書籍も多くあるので,総数はもっと多いはずだ.日本語のキンドルの点数は12万ほどだが,売り上げランキングの上位にくるのはやはりマンガのようだ.

理工書はどうだろうか?理工書は電子書籍に向かないと言う人もいれば,理工書こそ電子化して欲しいという人もいる.実際のところどうなのか.少し調べたところでは,日本の理工系出版社は,各社何点かの書籍は「電子書籍」として販売しているものの,主力商品として位置づけているところは少なそうだ.それに比べて,英語圏の出版社では,かなりの点数が電子版でも販売されている.事実,欲しい洋書は,専門書も含めほとんどkindleで入手できるようになった.「デジタル教科書」の構想は,日本でも議論はされているみたいだが,韓国などでは小中高にデジタル教科書を導入するなど,かなり進んでいると聞く.

理工系の先生方はよく,ページ数の制限や印刷のコストの問題を回避するために,電子書籍で出したいということを言われる.たしかに紙の本を出すのをやめて電子版だけで出版することには,メリットが多いように思われる.例えば,
・ページ数を気にしないで出せる
・コスト=定価を下げることができる
・小まめに改訂することが出来る
などがすぐ思い浮かぶ.「紙面」という物理的な制約から解放されて,好きなだけ書ける.しかも「早く」「安く」つくれるなんて,いいことだらけだ.出版社としては,編集とレイアティングをしっかりやれば,付加価値のある商品となるだろう.私も,出版社に入った一年前はなんとなくそう思っていた.ところが,実体はそうはなっていないことを知った.

学術系の出版社が出している電子書籍は,あくまで紙の書籍と並行販売だ(ただし電子教科書は例外かもしれない).海外の出版社を見回しても,理工系の専門書の新刊を電子版だけで売っているところは知らない.つまり,(私の調べた限りでは)出版社を使って電子版のみの書籍の販売をすることは出来ていないようなのだ.つまり,著者や読者が電子書籍に一般に期待していることとその実態とが,微妙にずれているらしい.

電子版だけで出されている理工書がない理由は,採算が取れないからだろう.紙の実体がない本に,読者がいくら払うだろうか.個人的な感覚だが,紙とそれほど変わらない値段でも電子書籍が売れるのは,「紙で出ている本が電子でも読める」と思うからではないだろうか.ならば,めっちゃ安くすれば良いか.ところが,編集の手を加え宣伝も行う電子書籍の場合,それほどコストを下げられない.ならば編集をほとんどせず,フォーマットだけを整えて電子出版すればいいのかもしれないが,それではもはや出版社が存在している意味がなくなってしまう.

実際,時代はそっちの方向に進むのかもしれない.ネット上にチュートリアルの文章を無料公開し,学びたい人それを読む.編集の目は入っていないが市販されている書籍より完成度の高いネット公開文書はいくらでもある.このような情報発信がどんどん大きくなっていくだろう.これは無料ではなく,ある程度課金しても成り立つようになるかもしれない.そのように考えたとき,比較すべきは「紙の本vs電子書籍」ではなく,「紙の本(およびその電子版)vs電子版のみの出版物(またはそれに変わるもの)」だろう.後者は,仮にビジネスとして成立したとしても,従来の出版社に出る幕はない可能性は大だと思う.

私個人としては,出版社勤務の身というよりは一読者として,「紙の本(およびその電子版)」の肩を持つ気持ちがある.だから「紙の本(およびその電子版)」の側の弁明を試みたい.いや,弁明というか,実際問題として紙の本(とその電子版)が成功してきたという事実があり,ネットで情報が手に入る時代に「なぜ紙の本は売れているのか」の理由があるはずなのでそれを考えたい.もっといえば,「本とは何か」という疑問.このような根本的な疑問を素通りして,「これからは電子書籍の時代だから,編集者はスキルを身に付けて電子書籍の編集者になればいい」と言うのはちょっと危ういんじゃないか.

少し考えた結果,書籍というメディアの強みは,実はその弱みだと思われることのなかにこそあるのではないかと気づいた.
①紙の本は,印刷や製本にコストがかかり,原価を抑えるためにページ数に制約が生じる.分量が多すぎる本,分量が少なすぎる本は出すことが難しい.しかし,それを裏返すと,そのようなコストを省みず,この本はつくられた.それが値打ち感につながっている面があることは間違いないと思う.紙の本が全て「いい本」な訳ではないが,少なくとも何らかの理由で出版社が「売れる」と判断したからこそ,編集・印刷・製本という労力が掛けられて,書店に並んでいるのだ,という最低限の安心感がある.
②限定されたコンテキストでしか発信できない.つまり,ネット上の情報のように相互リンクを張られた中にコンテンツがあるのではなく,何百ページという空間の中で完結させなければならない.そのことから出てくるメリットに,あるターゲットに絞って出すことができるということがあると思う.本には,ブログを読むとか,実際にその人に会って話を聞く以上の体験ができる.精神科医の斎藤環さんによる二冊の本『生き延びるためのラカン』『「社会的うつ病」の直し方』を読んだ.前者は若者言葉を使って読者の共感を得つつラカンの思想を紹介する本,一方後者は,うつ病で悩む本人や家族を救う為に臨床医として指南する本.両者の対象とする読者は違っていて,語り口は全く違っていた.本という媒体でなかったら,ここまで書き分けることは出来なかっただろうと思う.ブログにしてもテレビにしても,語り掛ける相手は不特定多数にならざるを得ないが,書籍の場合は,ある程度ターゲットを絞ることができる.理工書の場合でも,「この先生が学部生向けの教科書を書いたらこうなるのか」という驚きがあったりする.
③紙の本は数1000部単位で刷るため,一度作ってしまったら修正が難しい.しかし,その裏返しで,内容が簡単には書き換えられないことは本の良さでもある.ブログやウィキペディアは情報源としては良いが,仮に不都合な内容があったら即日引っ込めたり書き換えられたりするが,本の場合はそれはない.また本の特長として「あの本の何行目にはこう書かれていた」と皆で指差せることがある.(その点,ページ数や行数の概念がないkindle版では,それができなくて困ることがある.)このような書籍の「確実さ」の真逆は,いつの間にか内容が書き変わっていて,いつ書き換えられたのかすら誰にも分からないという,オーウェルの「1984年」に出てきそうな状況だが,ネットはそれに近いところがある.ただし,書籍の場合も増刷のときに勝手に内容を微妙に修正したりして,それで読者から苦情がきたりするのだが,それでもある程度「作品としてのアイデンティティ」は保たれていると言えると思う.
今思いつくのはこれくらいだろうか.

理工書以外を見れば,もちろん電子版だけの出版物で成功しているものは沢山ある.
なかでも雑誌のipad版には,音声や動画を効果的に組み込んだものがあり,紙の雑誌を超えるコンテンツとなっている(economist誌,scientific american誌など).Newsweekが紙版の販売をやめてしまった.それから,セルフパブリッシング.自分で書いた本を500円でkindle direct publishingで売って,かなりの部数を売っている例もあると聞く.そういうのは,出版社と関係ないところで,どんどん進んでいくんだろう.(ただし,セルフパブリッシングの自分で書いた文書を,自分でプロモーションして,お金をもらって読んでもらうというのは,普通の人にはかなりハードルが高いことだとは想像する.)しかし一読者の立場から「本」のよさを改めて考えてみると,「紙の本(およびその電子版)vs電子版のみの出版物(またはそれに変わるもの)」の比較において前者のメリットは確かにあるように思えるので,出版社で働く限りはそこを見失わないようにしたい.


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08.16
Fri
I've been reading this special issue of the magazine (『現代思想 8月臨時増刊号』; Contemporary Philosophy), featuring the legacy of John von Neumann.

The special issue is an anthology of essays on von Neumann, written by 15 Japanese scholars each having different expertise. It's really a good idea to do it this way, because it would have been impossible to cover all aspects of a gigantic figure like von Neumann by a single author.

The variety of different ways in which von Neumann is described in these essays was truly surprising. Not only is he depicted as "the" father of multiple academic disciplines, such as game theory, quantum mechanics or computer science, his character is also multifaceted.

One essay simply focuses on the his unmatched intelligence, calling him the "genius of the tenth degree of magnitude". Another portrays him as a typical "mad scientist" who prioritize scientific pursuit over ethical values, since Neumann had been one of the main proponents of the atomic bomb. On the other hand, when I read the transcription of his public lecture on mathematics (also included in this issue), the impression I got was a somewhat modest and sincere attitude toward academic issues. (The translator of this transcription, 高橋昌一郎先生, also points out that Neumann had balanced opinion about philosophical issues and wrote in much accessible style compared to Kurt Godel or Alan Turing.)

A person like Neumann is best described by adjectives like "huge" or "gigantic". It is truly astonishing that a single person could accomplish all these things. There is hardly any person like Neumann, and both his sins and achievements are off the scale.

The question that comes to my mind is, is there a von Neumann of today, somewhere on earth? If so, how can one know that he/she is one?



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08.11
Sun

ビッグデータの正体 情報の産業革命が世界のすべてを変えるビッグデータの正体 情報の産業革命が世界のすべてを変える
(2013/05/21)
ビクター・マイヤー=ショーンベルガー、ケネス・クキエ 他


Twitterなどで複数の人が話題にしていたので読んでみた.

自社で保有するデータを有効活用してビジネスに生かしたGoogleやAmazon,Walmartの事例や,Web上のデータを使って思ってもみなかったサービスを編み出したベンチャー企業などの成功例を挙げながら,ビッグデータの可能性を描く.一方で,ビッグデータ利用の限界や問題点にも言及していて,タイトル通り,ビッグデータブームの全体像をつかむのに良い本だった.

ビッグデータの本質は,扱えるデータが多くなったという量の問題ではなく,データの使われ方が質的な変化であるという.本書では,ビッグデータと従来のデータ利用との大きな違いがいくつか挙げられている.

・ビッグデータ分析から分かるのは「相関関係」.因果関係は分からない.「この広告を打てば売れる」と「機械のこの部分がもうすぐ壊れそう」という予測に関しては威力を発揮するが,「なぜそうなるのか」と原因を問うことは諦めなくてはいけない.
・データの集められ方が違う.従来は,ある目的をもって調査が行われデータが取得されたが,ビッグデータ時代には,最初からデータの将来的な2次利用を念頭に,データが収集・保存される(そのことから,データ利用の事前承諾が難しくなるなどの問題も出てくる).

本書を読むと,自分の仕事などでもビッグデータが生かせるんじゃないかと思わされる.
著者は,ビッグデータにまつわる価値を「データ」「スキル」「アイディア」に分けて,ビッグデータ利用の「スキル」と「アイディア」を持った人が当面は重宝されるが,それが(かつて「プログラミング」がそうなったように)当たり前のものになると,強いのはデータを持っている人(会社)になるだろう,と予言している.GoogleやFacebookに勤めていないかぎり自分でビッグデータを保有するということはできないけれど,最近では政府の保有するデータの公開も進んでいるので,どこに行けばどんなデータが使えるかという知識を持っておくと強みになりそうだ.

一方で,何でもかんでもビッグデータで解決できるというというのは幻想だというのも,この本の趣旨の一つだった.当たり前だが,「この世にまだ存在していないもの」(本書ではアップルの製品開発が例に挙げれれていた)とか「一回しか起こらないこと」について,データに決めさせることはできない.







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08.09
Fri
「斎藤環と茂木健一郎の往復書簡」を読んでみた.
(書籍としても出版されていますが,双風舎という出版社のサイトで読めます.→「斎藤環と茂木健一郎の往復書簡」

この往復書簡が完結した2010年は,ちょうど茂木さんが脳科学者として大ブレークしていた頃.科学的な立場で「クオリア」の研究をすると標榜する茂木さんに対し,サブカルチャーの批評などでも有名な精神科医の斎藤氏が「ちょっとまって」と議論を挑む.

「ひとの心」という同じものについて語りながら,両者の見方・立場が180度違っていて,大変面白かった.
茂木さんの立場は,言葉に出来無い「生の経験」として「クオリア」は確かに存在し,それは神経活動によって引き起こされるはずだ,というもの.それに対し,斎藤氏は,「クオリア」は幻想であり「こころは言語が生み出す」という立場を取る.一見,茂木さんの言っていることの方が分かりやすく,実感にあっているように思える.

一方で斎藤氏が(一見分かりにくい見方を提示することで)茂木さんに苦言を呈したくなった理由も,なんとなくだが分かるような気がする.クオリアの存在を自明視して突き進むやり方には,どこかに抜け落ちた部分があるのではないか.(例えば,茂木さんと斎藤環氏のどちらが「人のこころ」について深く理解しているか,と考えてみる.茂木さんはもちろん圧倒的にいろんなことを知っているし,知っているだけじゃなくて経験も豊富だし,実際に会ったら感化されることは間違いない.けれど,一方の斎藤氏の方が,(もちろん臨床医であることも大きいと思うけれど)人間に対する理解が深そうな「感じ」がする.本当に上手くいえないのだけれど,この「差」に,脳科学的なアプローチが不可能な,心の一面があるのではないだろうかと思える.)

「やりとりをつうじて私が問いをぶつけていた相手は、ひとり茂木さんばかりではありません。やみくもに生物学主義を奉る精神科医であったり、あまりに還元主義的な脳科学者であったり、無意味なほど楽観的な決定論者たちであったりと、さまざまな「仮想敵」を茂木さんの背後に見ていました。」(『第5信 チューリングマシンの精神分析」斎藤環から茂木健一郎への手紙』より)

斎藤氏が「仮想的」としているのは,物理法則や,進化の法則,遺伝の法則からスタートする方法が万能である保障はないのに,それらを第一原理として突き進む人達だ.茂木さんも,科学者の多くとは違う出発点に立っている(統計に基づいた科学ではなく「偶有性の科学」を表明しているので)とはいえ,「クオリア」を第一原理においている点ではその仲間に入る.斎藤氏は,見た物をそのまま信じ,出発点にしてしまうような仕方は「天動説」と同じなのではないかという.なるほど,するどい.

議論は微妙にかみ合っていないし,論点とは全然関係ないような文章が続いているような部分もある.しかし,今後「意識の脳科学」がメジャーになっていく中で,この斎藤環vs茂木健一郎のバトルは,普遍的とみなされるような論点を含んでいるんじゃないかという予感がある.
意識の問題への脳科学的アプローチに興味がある人は,是非読んでみて欲しいです.

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その後,斎藤環さんの『生き延びるためのラカン』を読んだ.人の「欲望」を読み解くラカンの見方は,今まで見知ってきた学問とはかけ離れていて驚いた(「すごく分かりやすかったけど,ラカンの考えはまったく理解出来ない,というか受け付けられない」という中島義隆さんによる解説に親近感を覚えた).
切れ味はするどく,役に立つのだろう.けれど,やすやすとは使えない道具だと思った.
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08.04
Sun

<ひと>の現象学<ひと>の現象学
(2013/03/21)
鷲田 清一


きれいな装丁につられて購入した.
私にとっては鷲田清一氏といえば高校現代文(教科書に出てきたのは『身体,この不思議なもの』だったか?)でおなじみの哲学者だった.

「顔」「心」「家族」「愛」「自由」「死」などといったテーマごとに論じられている.いわく,「あるものを見たときにそれとは反対のものを透かしてみてしまうというわたしの思考の,いってみれば癖のようなもの」(p251)を突き詰めて,各テーマについて語る.「顔とはなにか?」というような,いかにも鷲田先生の哲学っぽい,身体を見つめなおすような話から,「現代日本で個人の在り方がどう変わってきたか」という社会学的視点からの考察もあり,「ひととして生きる」ことの全体について書いた本となっている.

手加減なしの文章のため,何を言っているのか分からないところも多い(だからこそ大学入試でよく出たりするんだろう).また,分かりやすい「主張」や「結論」が用意されているわけでもない.それでも,非専門家でも読めるような言葉で書かれているので読み進めることができ,ところどころで,はっとするような考え方に出会う.

私が読み取れた限りでは,この本の主題の一つは,「『自分のもの』と思っているものは,実は他者から与えられるものだ」ということ.
「わたしの「こころ」はわたしには見えない.それは,わたしの名前がそうであったように,他者から贈られるものなのだ.」(p77)
そして,もう一つこの本を通底している見方として,現代に生きる人々の「存在が軽くなっている」という指摘があったように思う.存在に重みを与えるのは,やはり「他者」の存在である.にもかかわらず,社会や経済は,「自由」や「権利」が「個人」が「所有」するものという前提で成り立っているため,「存在の軽さ」が加速している.
「家族」や「死」や「自由」に関する個別の論考にも,(まったく聞いたこともない斬新な考え方,というわけではないが)鋭い指摘が多い.

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毎日,私は当たり前のように,「社会」のなかの「個人」として,「人権」に守られて,「責任」を果たしながら,「家族」とともに生きている.だが,それらの概念が,実は訳の分からないものであることに気付かされる場面がある.たとえば,
・「家族」のとらえ方について,自分の家族のメンバーとの間での不一致に気付いたとき.
・身内が生活保護を受ける資格がないと言われたとき.
・精神病などで,人格が破たんした人を目の前にしたとき.
・なかなか寝付けない夜,あるいは,腹痛など身体の痛みに襲われるとき.
普段の生活が,底が抜けたものの上に乗っかっていることに気付く.

それから,もう一つ.
つい最近,理研のプレスリリースで「ネズミに偽の記憶を植え付けることに成功した」という記事があった.脳研究の発展により,そういうサイボーグ的な技術がどんどん実現性を増すにつれて,「人とはなにか」「自由とはなにか」といったことについて,誰もが考えざるを得ない時代になるのも間違いない.

理系の本ばかり読んでいると,「統計」も「調査」も「実験」も出てこない(あるいは定理や証明の出てこない)本書のような(一般向けの)哲学書が新鮮に思えた.
しかし,訳のわからないものごとに取り囲まれていることに気付いてそれらについて本気で考えたいと思うとき,読むべきはなにかの「データ」に基づいた本ではなく,一人の哲学者の「論考」なのかもしれない.佐藤文隆さんも言っていた(『科学にすがるな!』岩波書店)ように,「人が「ひと」や「生きること」や「死ぬこと」」をどういうふうに生死に関わることについては,科学には答えられないので.

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