07.06
Sat
![]() | 科学を語るとはどういうことか ---科学者、哲学者にモノ申す (河出ブックス) (2013/06/11) 須藤 靖、伊勢田 哲治 他 |
物理学者の須藤靖氏と,科学哲学者の伊勢田哲治氏による対談.
発端は,須藤先生が科学哲学を痛烈に批判しているのを聞きつけた伊勢田先生が,対談を申し込んだということらしい.
現状の科学哲学にそもそも価値を認めない須藤先生.
それに対して,科学哲学に対する誤解を解き,どういう学問なのかを懸命に説明しようとする伊勢田先生.
須藤先生の科学哲学に対する批判は,多かれ少なかれ,科学者(とくに物理学者)に共通する態度のように思われた.
・進歩が目覚ましい科学にくらべて,哲学というのは,300年前からずっと同じことを議論しているようだが,そんな風に停滞しているのは,やり方が間違っているのではないのか?
・量子力学や相対性理論をろくに理解しないで,「時間」や「因果」などについて論じることに意味があるのか?
・科学哲学が扱う「実在論」vs「非実在論」のような議論は,結局は解決のつかない「趣味の問題」なのではないのか?
須藤先生のこのような意見は,私自身,物理学科の何人もの先生が口にしているのを聞いたことがあった.(一方で,伊勢田先生の言葉は,筑波の分析哲学の先生を思い出させるものだった.2人は物理学者と哲学者をよく代表しているのかもしれない.この対談は,普段は交流がない両者が本気ぶつかっている点ですごく貴重なものだと思う.)
須藤先生は多くの物理学者と同様,科学(物理学)に全幅の信頼を置いているように見える.
ニュートンの力学がアインシュタインの力学にとって代わられたように,科学は前に進んでいる.帰納的な方法を使っているために,100%正しいということを論証することはできないのは認めるが,それでもおおむね科学は健全な方向に進んでいる.だから,「具体的な対案も示さずに」,ただたんに「そうは言うけど,それって本当に正しいんですか」と横槍を入れるだけの科学哲学が,とても非生産的なものに見える.そういう感じだ.
一方,哲学はもう少しメタな立場をとるのだと伊勢田先生は言う.
科学と同じ土俵で既存の科学を疑っているのではなく,「科学とはどういう営みなのか」ということを,科学を前提しないところから考えるのが哲学だと.だから,哲学には科学理論に対する代案を出す必要はない.
「それでは,科学哲学は科学にどのような知見を与えてくれるんだ?」と問う須藤先生に対し,「科学哲学者は科学のためと思って研究していない.問題意識が違うのです」と返す伊勢田先生.「因果」や「自己意識」などについて,「それは何をもって○○というかによるでしょう」と,しつこく定義にこだわる須藤先生に対し,「定義されていないものについて考え始めるのが哲学です」と返す伊勢田先生.互いに紳士的ではあるけれど,一向にかみ合わない議論が延々と続く.
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須藤先生の言っていることは,「現状の物理学は確かに一つの立場に過ぎず,どの立場を選ぶかは宗教と同じで趣味の問題だが,いままでの実績を見る限り科学の成功は明らかだ.一番うまくいっているのだから,それでよしとしようじゃないか.また,物理学を勉強しないで科学について語るのは無意味だ」というふうにまとめられるだろうか.
個人的には,伊勢田先生の言っていることにシンパシーを感じた.須藤先生のような考え方には満足できない理由は,「どのように理解したいか」ということにもかかってくることだろう.物理学に十分に親しめば,物理学的な説明で世界を理解することで満足できるのかもしれないが,私などは「ほかの可能性は?」と考えてしまう.(またそれとは別に,原題の物理学がぶち当たっているような,「量子力学の解釈問題」とか「宇宙の開闢問題」などが,科学哲学的なものを要求しているような気がするけれども,それについてはうまく書けない.)
それにしても,とてもとても刺激的な対談だった.
須藤先生は,ここに書いてあるような科学哲学者に対する敵意を本当に持っていたのだろうか?もしそうだとしたら,これだけの長い対談をするのはよほどの忍耐力がある先生だと思うし,もしかしたら,対談を面白くするために敢えて悪魔を演じていたのかもしれない.そのどちらにしても,やはり一流の先生だと思う.
この二人だけでなく,いろんな科学者に,こんな対談をしてもらいたい.
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