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06.09
Sun

In Pursuit of the Traveling Salesman: Mathematics at the Limits of ComputationIn Pursuit of the Traveling Salesman: Mathematics at the Limits of Computation
(2011/12/27)
William J. Cook



「巡回セールスマン問題」.
セールスマンが回るべきいくつかの都市があるとき,各都市に一回ずつ寄って元の場所へ戻ってくる経路のうち,最も距離が短くなるものを求めよ,という問題だ.

本書では,その巡回セールスマン問題の何が難しく,どこまで解けていて,なぜ長い間人々の関心を集めるのか等
,「巡回セールスマン問題」のあらゆる面が語り尽くされている.
最近,『驚きの数学 巡回セールスマン問題』(2013 青土社)というタイトルで邦訳が出ている.

「巡回セールスマン問題」は,
・問題自体は,小学生でも理解できるほど明快で,一見,誰でも簡単に解けそうに見える.
・ところが,実は,(少なくともナイーブな発想に基づいた方法では)最新のコンピュータを使っても(現実的な時間内には)解けない.
という,象徴的な問題なのだ.

本書に読むと,巡回セールスマン問題が,グラフ理論や組み合わせ最適化,線形計画法,計算量理論など,情報数学のさまざまな分野の発展を促す起爆剤となってきたことが分かる.


「巡回セールスマン問題」と聞いて思い出すのは,大学院のときの「適応システム」という講義で,遺伝的アルゴリズムを使ってこの問題を解くプログラムを書かされたことだ.(そのときは,「ずいぶんマニアックな宿題を出すな」と思った.)
驚いたことに,その講義の先生(東工大の永田裕一先生)が,巡回セールスマン問題のエキスパートの一人として,本書に何回も登場していた.


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06.06
Thu
3月から5月までの,独立数学者の森田真生さんが講師をつとめる「たくらみゼミ」に参加した.
森田さんの講演を聞くだけでなく,受講者も発表する,ゼミ形式での講座.
ひと月おきに三鷹の天命反転住宅に20~30名の受講者が集まって,森田さんを囲んで数学について語りあう(発表しあう)という,不思議な会だった.

今回,設定されたテーマは「数学の身体性」.
「数学は人間がつくったものである」という前提にたって,数学と身体の関係,そして「数学とはなにか」ということを捉えなおしてみようというテーマであった.

思うに,今回,数学の身体性をゼミのテーマは,森田講師が数学者として,数学に取り組んでいるときに自分の中でなにが起こっているのか,常日頃考えていることの中から,自然に出てきたテーマなのだと思う.
森田さんが引用していた数学者の岡潔の言葉の中に,つぎのような一節がある.

そう思って自分のやり方を見ると
数学を自分の心の中にとりいれて
そしてその心の中で数学を見る.
そうすると心の中に入っている数学が
その一点で凝集して形を現してくるというふうになる.


このように岡潔が語っているような,「数学をしているときの心の状態」というものがある.
それを,現代の科学・哲学の言葉で言い直したらどうなるのだろうか?
そのことについて,神経科学者のS.Deheaneの『数覚とは何か』や,哲学者A.Clarkの『現れる存在』などの文献をヒントに考えてみようというところから,このゼミが始まった.

回を重なるにつれて森田さんの話は広がっていき,脳科学の知見から数学的能力について考えたり,西洋の数学と日本独自の数学の違いを比べたりするなど,多方向へと広がっていった,
受講生の発表も十人十色で,それぞれの専門分野や職業などのバックグラウンドが反映されていて面白かった.

参加者の一人ひとりが,このゼミから感じたことはさまざまだろう.

以下は,「たくらみゼミ」に参加した3カ月間で,私が個人的に考えたこと.

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岡潔のいう,「数学は情緒である」というような言葉についての話を聞いていて私がまず思ったのは,それは,数学者だけの境地なのではないだろうか,ということだった.
数学に生涯をささげることに決めた人の数学的体験は,一般人には理解できないのではないだろうか?

しかし,芸術や宗教などと違って,数学は身近なものだ.なにせ,小学生のころからずっと付き合ってきている.

数学者でない人とって,数学とは何なのだろうか?
この年(25歳)になって,数学というものにもう一度向き合ってみると,数学について全然分かっていなかったことに気づく.

そもそも,僕らはなんのために数学を勉強してきたのか?
数年前までの自分なら,理工系の学問の下地をつくるため,というふうに即答したかもしれない.
事実,工学全般や物理学や化学,最近では生物学の分野でも,数学は言語として使われている.
20世紀前半の数学者T.Dantzigが,「数学は科学の言葉」であると言っているように.
もちろん,数学者にとっては,数学それ自体が興味の対象になるのだろうけれど,その他大多数にとっては,他の学問のための道具なのだろう.

しかしそれでも,数学には,実用性を超えたところで人を惹きつける何かがある.
そしてその「何か」が,たくらみゼミで語られていることの本質であるようにも思う.

「たくらみゼミ」の最終回の発表のためにいろいろ調べていたなかで,文部科学省の学習指導要領に出くわした.その中では,高校数学教育の目的として,次のように書かれていた.

”数学的活動を通して,数学における基本的な概念や原理・法則の体系的な理解を深め,事象を数学的に考察し表現する能力を高め,創造性の基礎を培うとともに,数学のよさを認識し,それらを積極的に活用して数学的論拠に基づいて判断する態度を育てる.”

「数学的判断力」や「事象を数学的に考察する」など,数学の実用的な側面にも触れられている一方で,「数学のよさ」という,ちょっと不似合いな言葉が出てくる.しかし,舌足らずな感じも受けるこの「数学のよさ」という表現には,いろんな気持ちがこもっているのを感じる.

実用性に収まらない,「数学のよさ」.
この「数学のよさ」に取りつかれた人々が,数学者になるんじゃないか,などと妄想が膨らむ.
しかもそれは,数学教育の指導要領にも書かれいることから分かるように,非数学者にも開かれた「よさ」であるはずだ.

数学者でない人も感じられる「数学のよさ」はなにか?
自分の胸に手を当てて考えてみて,私の中から思い当たったのは,中学生のときの二つの体験だった.それは,三平方の定理を証明できたときの感動と,累乗の計算が「0乗」や「分数乗」へ拡張されることを知ったときの不思議な感覚であり,これらのエピソードは,たくらみゼミの個人発表の題材に使った.

それらの体験は,(T.Dantzigの本を読んでの後知恵からすると),「知らなかったことを知った」ことよりも,むしろ,「自分にとってのリアリティが広がった」ことによる感動なのだと思う.
またそれは,岡潔の言う「数学の体系という船を操って,沖に漕ぎ出すという感じ」にも近いのではないかと思えるし,自分の世界を広げ,世界の外に足場を作っていく作業を追体験するという,A.Clarkの哲学にも近いものがあるのではないかとも思える.
そして,江戸時代の和算家たちこそ,「数学のよさ」を純粋に楽しんだ人々だったのではないか.
今は,そんなふうに勝手に考えて,腑に落ちた気分でいる.

本当は,「その感覚がどこから(世界から?身体から?)くるのか」というのが,たくらみゼミのテーマだったはずなのだが,それについては今はまだよく分からない.

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昨年の冬,森田さんの講演をはじめて聞いたとき,「数学には身体的技芸のような側面がある」ということを初めて知り,その考え方に感銘を受けて,それ以降数学のことをよく考えるようになった.

いろいろ本を読んでみたりするなかで,一番の驚きだったのは,だれも『数学とはなにか』を言い当てていない(もしくは皆別のことを言っていて,統一した見解がない)ということだった.
しかし,「数学のよさ」というような言葉でしか言い当てられない何かは,全力で数学をしている森田さんのような人から確実に感じ取ることができ,数学者でなくても共有できるものだと,たくらみゼミを終えた今の私は思っている.
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