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05.23
Sat
このたび、FC2ブログからはてなブログへ引っ越すことにしました:
新しいアドレスはこちら:
http://rmaruy.hatenablog.com/

(誰も見ていないと思いますが)引き続きよろしくお願いします。
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05.02
Sat
『AIの衝撃』という本を読んだ。

AIの衝撃 人工知能は人類の敵か (講談社現代新書) 小林雅一
固定リンク: http://www.amazon.co.jp/dp/B00UT1RJ7M

最近の人工知能ブームの実体が、かなり分かりやすくまとめられている。直近のAI技術のどこが新しいのかなどの技術的内容だけでなく、AI研究を押し進めている(Google、Facebook、百度といった)企業の動向、AIがもたらすと言われる諸問題(「職を奪うのか問題」や「シンギュラリティ問題」)など、AIブームについて知りたいと思うような話題が余すところなくカバーされている。同著者による『AIからクラウドへ』(朝日新書、2013)と内容は一部は重なるものの、この1年の動向も多く紹介されているので、前著を読んだ人も買って損はないと思う。

個人的には、人工知能の技術的側面に書かれている第2章がとくに面白かった。AI技術の進化の歴史がコンパクトにまとまっているし、腑に落ちる記述もたくさんあった。だがその反面、「本当にそうか?」とツッコミを入れたくなる内容があった。そして、それは人工知能研究の本質的な問題に関わっているようにも思えた。その問題とは、「今の人工知能研究は、本当に知能の本質に迫っているのか?」というものだ。

ここでは、この本の第2章の内容を振り返りつつ、これを読んで感じたことを書いてみたい。

今回の人工知能が「単なる数値計算」を超えている理由?

第2章で著者は言うには、現代のAI技術の根幹にあるのは「機械学習」である。機械学習とは、データを何らかの関数に当てはめたりクラスタリングをする技術だが、数学的に言うと機械学習がやっているのは要するにコスト関数の最適化」である。果たしてこれは「知能」なのか? AIには、その技術的中身をみたとたん、「知能」っぽく見えなくなるという傾向がある。

現代AIのベースとなる機械学習とは、例えば「言葉を聞き分ける」「写真を見分ける」といった人間の知能を、コンピュータが得意とする大規模な数値計算へと巧妙にすり替える手段である。(中略)[このことを]知ってしまうと、失望あるいは幻滅を覚える読者の方が多いかと思います。つまり「コスト関数を最小化」するといった無味乾燥な数値計算が現代AIのベースとなっているなら、今後いくらそれを発展させたところで生身の人間が持つ「本物の知能」、ましてや「意識」などというものは、どう考えても生まれてこない。そういう印象を持たれても仕方がないでしょう。



これにはとても共感できる。内実は機械学習である諸技術を「人工知能」と呼ぶことへの違和感を、言い当てているように思う。

ところが、今回に関しては「そう決めつけることは早計だ」と著者は続けている。なぜなら「最近になってAI開発へ脳科学の研究の成果が本格的に取り入れ始められたから」と言う。今回は、実際の脳の構造を真剣に真似し始めたから、単なる数値計算では終わらない可能性がある、と言うのである。

そこから、第2章の後半では、AIの研究の歴史を振り返りつつ、最近になって脳科学がどう取り入れられ始めているかを説明している。AI研究のごく初期に「神経細胞を模した」ニューラルネットが考案され、一度忘れられ、また復活してきたこと。そして、今回のニューラルネットは、脳の神経細胞ネットワークについて得られた知見を取り入れ始めていること。さらに、人工知能へ生かせる可能性が期待されている脳科学研究として、人の脳内のニューロンの結合状態のマップをつくる「コネクトーム」プロジェクトや、神経細胞レベルでの全脳のシミュレーションを行う「ヒューマン・ブレイン・プロジェクト」、シリコンで実際の神経細胞のスパイクを出すチップをつくる「ニューロモーフィック・チップ」の研究が紹介されている。

「今回のニューラルネットは脳を模しているから単なる数値計算ではない。だから、本物の知能を作り出せる可能性があるのだ」というのは、一見説得力もあるし分かりやすい話ではある。けれど、分かりやすいだけに単純すぎるような気が、個人的にはしてしまう。


本当に脳を模していると言える?

私が読み取った範囲では、著者が「最近の機械学習は脳科学を取り入れている」と言っているのは、主に「スパースコーディング」と「深層学習」のことらしい。スパースコーディングとは、一つの情報を比較的少数のニューロンで表現する符号化様式のことだが、脳が実際にスパースコーディングを使っていることは神経生理学的に明らかになってきており、またそれを機械学習に搭載することで性能が上がるという事実もある。一方、脳の神経ネットワークは何層にも及ぶ階層構造になっているが、それと同じく多層にニューラルネットを重ねた「深層学習(deep learning)」と呼ばれる機械学習器が成功をおさめているのは周知のとおりだ。

「スパースコーディング」や「多層のニューラルネット」の成功を根拠に、「人工知能が脳科学を取り入れて始めている」と言うのは、間違ってはいないと思う。ただ、個人的には、それがこれまでの人工知能と一線を画する決定的な違いだというのは、ちょっと言い過ぎなんじゃないかという感想も否めない。本書では「スパースコーディング」の神経生理学と人工知能を結びつけた研究をしている人として、Bruno Olshausen氏の名前が挙げられている。Olshausen氏にしても、deep learningのJeff Hinton氏にしても、脳研究と機械学習研究の相乗効果が期待できるというようなことはよく言っているものの、「脳について明らかになったことを人工知能に搭載する」とまでは言い切っていない印象だ(ネット上にOlshausen氏のスパースコーディングについての動画があった https://www.youtube.com/watch?v=amitGuJseqw )。思うに、脳について明らかになっていることは、それを「AIに実装する」と言えるにはまだまだ少ないのではないだろうか。

もちろん、本書『AIの衝撃』は啓蒙書なので、こういう説明になるのも仕方がないし、それによって分かりやすくなっていると思う。が、「本当に脳を模しているのかどうか」というところは、疑ってもいいのではないかと感じた。

(※蛇足となるが、同時期に出された本『人工知能は人間を超えるか』(松尾豊著)では、いまのAIがこれまでと違う理由として「特徴量を学習できること」という点があげられていて、こちらの方が本質的であるように思えた。)


知能理解・作成へのオルターナティブ?(以下妄想)

とはいえ「スパースコーディング」や「深層学習」以外にも、これからの脳研究が人工知能の性能をどんどん高めていくような知見をもたらすという可能性はあるだろう。でも、本書を読んだ感触としては、それは「可能性」にとどまるように思われた。さらに言ってしまえば、deep learningを中心とした機械学習器の改良をはじめ、「コネクトーム」のプロジェクトや「ヒューマン・ブレイン・プロジェクト」なども含む研究が、「知能を理解し、つくる」という目的にとって「実はすべてあまり関係ありませんでした」という結果に終わる可能性も残されているのではないだろうか。もちろん、あるアプローチが「正しい」「間違っている」というためには、目的とする「知能」をどう定義するか決める必要がある。そこがとても難しいところでもある(たとえば単に「機械学習の性能を高める」=「知能に近づく」とするなら何の問題もない)。まあ、定義の問題はまたの機会に考えることにしたい。

ともかく、私としては「脳が単なる数値計算ではない(従って現在のアプローチは不十分である!)」というナイーブな直観の側に、もうちょっとだけ留まってみたい。ただし私は研究者ではないので、それを証明したいというよりは、「そういう立場が成立するとしたらどういうストーリーが可能なのか」を知りたいという思いが強い。そういう意味で気になっているのが、ダグラス・ホフスタッター氏だ。

ホフスタッター氏は、実は『AIの衝撃』のなかで、かなり不名誉な紹介のされ方をしている。彼は、当初「機械にはチェスをできないだろう」と予言していた。カスパロフがDeep Blueに負けてそれが覆されると、今度は「芸術をつくる人工知能は登場しないだろう」と言ったいう。ところが、その予言もまた覆されてしまう(コンピュータが生成した音楽を、彼自身が判別できなかった)。それらのエピソードを引き合いに、本書では「頭の固い人工知能の懐疑派」の象徴のように言及されているのだ。でもこの扱いはちょっと不当だと思う。ホフスタッター氏の人物像はこちらの記事(英語)にくわしい:http://www.theatlantic.com/magazine/archive/2013/11/the-man-who-would-teach-machines-to-think/309529/ これを読むと、彼は人工知能の可能性を否定している訳ではなくて、あくまで人工知能研究のメインストリームから離れ、独自の知能観に基づいて研究を進めている(しかもまだ現役で研究をしている)。そのことに私としては魅力を感じ、期待を抱いてしまう。ホフスタッターさんの頭の中に、どんな「知能観」があるのだろう? ただ、どうやら彼自身、自分の知能観を明確に語る言葉はまだもってないようであり(「もしハッキリとしたアイディアがあるのなら、あんな長い本を書かないはずだ」と誰かが書いているのを読んだことがある)、もどかしいところだ。“The Mind’s I”という本を読み始めたのだけど、これもまた長大な本で、簡単に読解できそうにない。
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03.29
Sun

センスは知識からはじまるセンスは知識からはじまる
(2014/07/08)
水野学



会社の上司に勧められて読んだ,デザイン系ビジネス書(そういうジャンルがあるとすれば).
一言でいうと,“センス”と呼ばれているものは実は“知識”のことなのだ,ということが書いてある本.言われてみるとなるほどなと思った.自分にはセンスが無いと思うことでも,知識を増やせばなんとかなるものなのだと思うと楽になる.あとは,「自分には分からない」という思い込みと,調べる面倒くささを乗り越えられればいいのだけど...


マーケット感覚を身につけようマーケット感覚を身につけよう
(2015/02/23)
ちきりん



マーケティングについて勉強したいなと考えていたとき,ちょうど書店でこの本が平積みになっていたので買ってしまった.これからは色々なサービス・労働が市場に晒されるのだから,その中で「自分が売れるものを考えるセンス=マーケット感覚」が,誰にとっても大事になるよという話.


How Google WorksHow Google Works
(2014/10/17)
エリック・シュミット、ジョナサン・ローゼンバーグ 他



GoogleのCEOを数年勤めたシュミット氏らによる著書.面白いと勧められたので読んでみた.
他企業に真似できないイノベーションを生み出してきたGoogleという会社を,いかにして経営してきたかという話なのだけど,この本が一番強調しているのは,「一流のエンジニア集団たちをマネジメントをどうするか」ということだったように思う.Googleにエンジニア職で入るような超優秀な人材(著者らはこうした人々を「スマート・クリエイティブ」と呼ぶ)には,普通のプロジェクト・マネジメントは効果的ではなくて,むしろ,権限と仕事に没頭できる環境を与えることでオーバーアチーブを促し,結果として画期的な発明に繋がるのだという.
ビジネス書としては内容が自分とはかけ離れすぎていて活かせるところは少なそうだったが.それよりも,Googleのサービスの1ユーザとして興味深い本だった.


Essentialism: The Disciplined Pursuit of LessEssentialism: The Disciplined Pursuit of Less
(2014/04/15)
Greg Mckeown

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邦題は『エッセンシャル思考』.ザ・自己啓発本.内容を一言でいうと「自分で選んだこと以外やるな」というもの.一つの極端なアドバイスではあるとは思うけれど,書いてあることの多くはごもっともだと思った.


思いやりはどこから来るの?: 利他性の心理と行動 (心理学叢書)思いやりはどこから来るの?: 利他性の心理と行動 (心理学叢書)
(2014/03/17)
日本心理学会、 他



「思いやり」や「利他行動」にまつわる心理学研究を,非専門家向けにまとめたオムニバス書.学術的内容にも踏み込んでいるが,興味本位でも読める本になっていると感じた.「利他的行為はどうやってはぐくめるのか」「人は利他行動をとるのか」などの素朴な疑問も,脳科学・心理学・進化論的に説明しようするとかなり奥深いことが分かる.


地方消滅 - 東京一極集中が招く人口急減 (中公新書)地方消滅 - 東京一極集中が招く人口急減 (中公新書)
(2014/08/22)
増田 寛也



非常に話題になっている本.
2040年までに若い女性(20~30台)の人口が半減以下になる市区町村が全体の半数以上に上ることが判明したという「増田レポート」を中心に,日本の人口問題の現状と対策について論じている.ここのところ「少子化対策」「子供を生みやすい就労環境の整備」「地方創生」などを本当によく聞くが,自分としてはいまいちピンと来ていなかった.本書にも,都会に住む人ほど,問題意識が低いということが書かれていた.本書で提言されている政策に対しては反論もあるようだが,現状把握のために読んでおいて損はない本だと思う.


科学哲学への招待 (ちくま学芸文庫)科学哲学への招待 (ちくま学芸文庫)
(2015/03/10)
野家 啓一



放送大学のテキストをもとにした,科学史/科学哲学/科学社会学の入門書.
本書の最大の特徴だと私が思うのは,「科学史」「科学哲学」「科学社会学」を「広義の科学哲学」として捉えて,それらを一つながりのものとして解説している点.この三つが「科学とは何か」を理解するのに欠かせない三輪である,ということが本書の冒頭であっさり書かれているのだが,その時点でちょっと目からうろこが落ちた.
重要な内容は押さえつつ,ものすごくコンパクトにまとまっているので,最初の一冊としてもかなりお薦め.大学一年生のときに読みたかったと強く思う.



はだかんぼうたちはだかんぼうたち
(2013/03/27)
江國 香織



どこかの待合室においてあった本.短編集かと思いきや長編だったので途中でやめられず,最後まで読む羽目になった.
主人公が決まっておらず,数ページごとに視点が切り替わる群像劇.どの人物もそれぞれの価値観をもって生きており,しかもどこか欠点や不寛容さをもっている.「それが大人っていうものだね」という感じ.ストーリーには大きな起伏も明確な結末もないのだけど,面白かった.


サイエンス・ブック・トラベル: 世界を見晴らす100冊サイエンス・ブック・トラベル: 世界を見晴らす100冊
(2015/03/26)
山本 貴光



今を代表するポピュラー・サイエンスの書き手たちが,自分のお薦めの本を紹介するブックガイド.著者らに加えて,理工書担当の書店員/科学書の翻訳者/ブルーバックスの編集者などのエッセイも収録されていて,それらがとても興味深かった.科学書の周りには,これだけ熱い書き手・作り手・売り手がいるということが分かって,勇気の出てくる本だった.

本書を読んで思ったのだが,「専門家向けでない科学の本」の正しい呼び方がよく分からない.「科学書」? 「科学啓蒙書」? やっぱり,英語の「ポピュラー・サイエンス」が一番しっくりくる?
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03.08
Sun
理工系書籍の編集の仕事を始めて3年.

この仕事をしていると,「本って売れるの?」とよく聞かれる.
もっとストレートに,「会社は大丈夫?」と聞いてくる人もいる.

聞く方としてはたわいのない世間話なのだろうけれど,まじめに答えようとするとシビアな質問だ.「あなたの職業は,これからの世の中に必要なのですか」と問われている気もなってしまう.「まあ,なんとかやっています」といってかわしてきたけれど,仕事として選んでやっているんだから,自信をもって答えられるようじゃなきゃダメだよなと思う.

けど,さすがに3年経ったので,少しずつ考えがまとまってきている気もしなくもない.その成果(?)を,ここに書いてみようかと思う.

本来なら,業界のデータを読み解いたり,文献から引用しながら論じるべきことを,ここでは単に個人的な経験と主観に基づいて書いていく.その「経験」にしたって,まだ3年かそこらでは十分とはいえないかもしれない.でもまあ,高校3年生が「高校とは何か」を語るのと同じくらいの説得力はあるのではないだろうか.

また,ここでは「理工書」に話題を限ることにする.自分に分かるのがそれしかないいうのもあるし,「本は必要か?」などについて語るときに,文芸書から雑誌,漫画,学術書,実用書,ビジネス書までの「本」をいっしょくたにするのには無理があると思うからだ(ただ,「理工書」を「学術書」までは広げてもいいのかもしれない).


書籍も編集者も必要(な気がする!)

理工系出版社で働く自分に投げかけられた「会社は大丈夫?」という冒頭の質問は,要するに次の二つのことを問うているのだと思う.つまり,「理系の人々にとって本は必要か」と,「編集者は必要か」.もう少し正確にいうと,こんな感じだろうか.

①これからの時代,科学技術にとって「書籍」というメディアは必要か.
②そこで職業的編集者が果たすべき役割があるか.


個人的には,①も②も答えはイエスであると思う.
立場上,そう答えなくちゃいけないから? 
それもある.けど,それだけじゃない.
自分には,そうだとしか思えないという直観(信念? 思い込み?)がある.
その直観を言語化してみたい.(自分の信念を正当化することに何の意味があるの,という気もしなくもないけれど,言語化することで自分が道を誤らずに生き残っていく道が開けるかなという気もするし,社会に迷惑をかけたりせずにこの仕事を少しでも長く続けるのに役立つのではないかと思うのだ.)

本の役割

なぜ理工学(もしくは科学技術)にとって「本」が必要なのか.
「いまでは情報は他の手段でいくらでも手に入るから,本は必要ない」という人もいる.確かに,ネットから有料・無料で得られる情報は,量でも鮮度でも,書籍を遥かに凌いでいる.オンラインジャーナルやウィキぺディアやブログ等など存在していなかった時代には,本は必要だった.だが,いまではもう役割を終えたのだ,という意見にも説得力がありそうにも思える.

でも,私は本を読みたいし,本で知識を得たいと思う.それは,過去の習慣を引きづった感傷に過ぎないのか? そうだったとしても,少なくとも,僕だけの個人的感傷ではなさそうではある.理系人の中には僕と同じくらい本が好きな人が多いし,「本で勉強したい」という人もまだ多い(だから理工書はまだ売れている)し,「本を書きたい」という理系研究者も意外に多いのだ(これは仕事を始めてから知ったこと).なぜなのだろうか.やはり,惰性かというと,そうじゃないと思う.

今の時代に,理工学において書籍にしか担えない役割があるとしたらなんだろうか.そもそも理工書には何が書かれているかと考えてみると,科学・技術にまつわる何らかのアイディアだ.ではそのアイディアや事実はなぜ「書籍」として伝達される必要があるのか.それを考えるために,こんな絵を描いてみた.

無題

この図全体は,とある分野のなかのアイディアの集合を表している.縦の方向が時間を表していて,分野が時間と共に発展していく様子を三角形で表現してみた.アイディアを集合の中に,「論文」や「書籍」が表している.そして,それらは独立に存在するのではなくて,相互に参照し合ってネットワークを形成している.そんなイメージ.

新規なアイディアや事実を,批判可能・相互参照可能なものとして世に出すのが「論文」.ブログや学会発表などの流動的なメディアとは違って,論文にはそうしたユニークな役割があるというのは大体の人が認めると思う.一方,書籍はどうだろうか.本にも,論文と同じく批判可能性・相互参照可能性がありそうだ.さらに,書籍の特徴として次のようなものが思いつく:

・安定している (時間が経っても内容が変わらない・作者から切り離されている)
・評価を蓄積できる (書評など直接的なもののほか,優れた本だけが絶版を免れることによる「淘汰」もはたらく)
・アクセシブルである (原則として誰でも手に入れることができる)
・リーダブルである (論文より体系的に書かれているので,読み解く難度が低い)
・啓発力をもつ (他のアイディアを喚起する力をもつ)

このような特徴をもつ書籍というものは,論文より大きくて目立つ「ノード」として,学術のネットワークを支えているように思える.さらに,さらに安定でリーダブルなテキストが「教科書」なのだと言っていいかもしれない.
こうしたことから,情報の固定手段として「本」にはユニークな地位がある.現時点ではそれを結論としたい.ちなみに付け加えておくと,ここでは「書籍」と「電子書籍」を区別していない.「紙の書籍」のほうが,作るときのコストや物理的制約が大きいせいで,もしかしたら「安定性」というメリットを発揮しやすいとは言えるかもしれない.でも本質的な役割は,紙の本でも電子書籍でも同じだと考える.

もう一つ,ノードを役割を果たすのは「テキスト」だけなのか,ということにも答えないといけないかもしれない.つまり,ビデオ・音声・ゲーム・その他のメディアではなく,文章でなければいけない理由はあるのか,という疑問だ.これについては,いまのところは「脳の構造」に答えがあると思っている.人は論理的な思考を伝達するために,言語を使わなければならず,それを何度も反芻できる形で保存する方法が「文章」なんだと思う.

編集者は必要?

②に移る.つまり,「これからも理工学に書籍が必要だとして,そこで“編集者”が果たす役割はあるか」.この2つ目の問いは,1番目に比べ格段に擁護しづらく思える.商業出版社や職業的編集者が今ある形で存在するのは,歴史的に偶然性によるところ少なくないと思うし,その役割も変わっている.たとえば,そう遠くない昔には,活字を並べて紙面をつくるのに特殊技能が必要だった.しかし,そのころに編集者がしていた仕事の一部は,DTPの普及でなくなっている.

けれども,編集の中核的な仕事は今でも残っているし,編集者の役割を果たす人は(従来型ではないにしても)いつでも必要だということについては,わりと自信がある.中核的な仕事,と書いたけれど,理工書の編集者の場合は,次の3つかなと思う.

(1)読者のニーズを知る,情報の目利きとなること
(2)文章の推敲を補佐すること
(3)著者の「書くモチベーション」を掻き立てること

(自分がこれらの機能を果たせているということではなくて,尊敬する先輩編集者などをみて,そう思うという話だ.)

まず(1)は,「本に何を書いて何を書かないか,また,どう書くか」を著者にアドバイスするという仕事だ.著者はその専門についてはプロであったとしても,情報をブロードキャストすることに関しては編集者の助けを必要とすることもある.

(2)は,いわゆる「編集」や「校正」「校閲」といわれる仕事.これは,3つのなかでは職業的編集者がそれをする必然性が一番少ない仕事かもしれない.プロでなくても注意深い人にチェックしてもらえば文章はよくなっていくだろうし,ソーシャル・エディティングという方法もあるし,人工知能が進化すれば多くの作業が自動化できる,ということにもなるかもしれない.ただ,現時点では慣れと知識とノウハウのある編集者の手が入ることによって,原稿改善に役立つことは多いと思われる.

最後の(3)だが,実はこれが結構大事だというのが,出版社に入ってから得た実感だ.どういうことかというと,理系の研究者はとても忙しい(すごくすごく忙しい).とくに,本を「書くべき」優れた研究者ほど,本などを書く時間がないもの.自発的に執筆を完遂される方がいないわけではないけれど,「読んでくれる人もいるか分からないし,研究が忙しいから」といって本業に専念される先生がほとんどではないかと思う.だから,「こんな本を欲している読者がいます!」という編集者の勧め(そそのかし,懇願?)が大事になる.理工書の名著のなかには,編集者のプッシュがなければ世に出なかったであろうものも数多くあるはずだ.名著につながるような執筆依頼は,見識のある編集者だからこそできることだろう.(ただし,これはよい面ばかりじゃない.一流の研究者に本を書いていただくということは,その先生が他の有意義なことに使えるはずだった時間を奪うことになる.だから思うのだけど,編集者は日本で一番貴重な資源「=最高峰の頭脳の稼働時間」を扱っているという自覚をもたなくてはいけない.表現は良くないかもしれないけど,これは本当にそう思う.)

先ほど書いたように,これからは商業出版社や職業的編集者以外の人たちが編集者的役割を担っていくということは考えられることだ.でも,少なくとも現時点では,「あなたの存在意義は?」と問われたら(1)(2)(3)を答えておきたい.もちろん,自分が出来ているかどうかは別として.

***

こうやって,少しずつ頭を整理することが大事かなと思う.「お前の仕事は必要か?」という恐怖の(?)質問を恐れることなく,業界内外の人と積極的にこういう話ができるようになっていけたらいいなと思う.
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02.26
Thu

Your Brain on Porn: Internet Pornography and the Emerging Science of AddictionYour Brain on Porn: Internet Pornography and the Emerging Science of Addiction
(2015/02/12)
Gary Wilson



インターネット・ポルノグラフィが脳に与える悪影響についての本.著者のウィルソン氏は,もともとは“teacher of anatomy and physiology”(高校か大学の先生?)だったが,今はもっぱらこのテーマに関する啓蒙活動をしている人のようだ.

この本の主張するところによると,ネット依存症の一種としてのネットポルノへの「中毒」(addiction)は現実にある.人間が本能的が求める刺激を,自然界にあるもの以上に増幅したものを「超正常刺激」(supernormal stimulus)という(「ジャンクフード」などが代表例)が,ネットポルノもその一種とみなせる.ネットポルノは,従来のポルノグラフィと違って,新規性の高刺激を高速・無制限に脳に供給することができ,それによって脳の報酬回路を強く刺激する.結果,本来の性的アイデンティティとは異なる偽の性的嗜好が生じたり,性機能の不全,さらには意欲減退などの症状が出たりするという.近年,若い男性の間で性機能不全の増加しており,著者の見解によれば,ここ10~15年で広まったネットポルノにその原因がある.一方,脳へのこうした変化は可逆的であり,ネットポルノから離れることによって正常な状態に戻っていくいう.

センシティブな話題ということもあり,科学的証拠は多くない.本書では,脳科学における研究例が2件挙げられている(両方とも著者の主張に沿う結果が出ている)が,現状はその2件しかないらしい.その代わりに,ネット上のフォーラム(著者とその奥さんが立ち上げたもの)に寄せられた,当事者たちの報告を数多く挙げている.多くのネットポルノを断った人々が,性交渉の能力を取り戻したことや日常的な記憶力やコミュニケーションの能力が回復したことなどを報告しているらしく,その証言がこの本の大部分を占めている.

経験談が主な証拠になっていることからも想像できる通り,まだはっきりしていない部分も多い.実際,ネットポルノ自体は無害だということをいう人もいるらしい.著者は,状況はタバコの規制が辿った歴史と同じだという.はじめは科学的根拠の少なく,業界の権益もあって問題の認知が遅れる.しかし,草の根から声が挙がり,やがて科学的な調査が追いつき規制などの対策が取られる.そのような歴史を,ネットポルノもなぞるのではないかと著者は言う.どういう結果になるにせよ,研究は進んでいくのだと思う.
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